二十三ノ十、阿吽
「来たぞ!」
待ち構えていた自警団は一斉に得物を構えたが、カルードはすぐには命令を下さなかった。石畳の路地に現れた白い狼をじっと注視している。
それは小路の向こうを押さえるネヒストも同じだ。二人ともすぐさま異変を感じ取った。
(あの時と同じだ)
巨体の白狼フェンリルはそれまでの機敏さはなく、よたついた足取りで石畳の路地を進んでくる。
そのもたもたとした足取り、虚ろな瞳、カルードとネヒストは同じ記憶に辿り着く。
「下がれ! 全員手を出すな!」
「誰も飛び出すな! その場で待て!」
ほぼ同時に叫んだ。
互いに離れた位置から相手の顔を見、目だけで頷き合った。
カルードは剣に手を置いたまま石畳へと降り、ネヒストもフェンリルを凝視しながら単身前に出てくる。
「カルード!」
「団長っ」
フェルディナントたちの声を片手で制しながらも、フェンリルから目を離さない。
カルードは剣を抜く。
(フェンリルは、月魔の毒に侵されている……!)
カルードもネヒストも、動物が月魔に変じることは知識としては識っている。
フェンリルは今、まさに死につつある。
肉体に完全に死が訪れた時、月魔の毒が暴走し死形の魔物が現れる。
どのタイミングで止めを刺せば「あれ」を食い止められるのか――。
今二人の意識にあるのは新市街で遭遇した変異体の月魔だ。
氷塊を担いだような姿、岩のように堅い肉体に変化した異形の月魔――退治ることの出来ない化物、周囲に毒素を撒き散らす元凶。
もし、あれが再び現れたら――。
(あの時のように、ここも……!)
過去の惨状が頭を過ぎり、あの時と同じく判断を急がせようとする焦りと迷いが緊張と苛立ちを呼ぶ。
だが今は、同じ焦燥を抱えたネヒストが目の前に居た。
一瞬、フェンリルの暗く落ちた瞳に光が戻ったように見えた。
風が何かの匂いを運んだか不意に頭を上げ、狼本来の俊敏さで包囲の僅かの隙間を狙って石畳を蹴る。
カルードとネヒストも刹那に反応し、飛び出した。
周囲に陣取る自警団や白騎士団も、この篭目を破られまいと守りを固めた。
駆け抜けようとするフェンリルの進路を幾重にも鉤棒が遮ぎ、フェンリルはすかさず向きを変えた。目の前にはカルードが居る。
ネヒストは大きく距離を詰めると、カルードの真横へと張り付いた。
そして向かってるフェンリルの真正面で、二人は左右に割れる。
なんの合図も打ち合わせも無かったがネヒストが表刃で、遅れてカルードが裏刃でもってフェンリルの純白の毛皮を切裂く。
カルードの一撃はフェンリルの脇腹を切り上げ、返す刃で打ち下ろして腰斬する。
ネヒストはそれを察して二の手を引いて剣を立て、後ろに飛び退いた。
カルードもフェンリルから離れ、引いた剣を水平に構えてフェンリルを出方を窺う。
一瞬のすれ違い様に、三撃。
フェンリルは数歩進んだだけで、全身を振るわせた。
そして倒れるより先に、一風の灰と消える。
揺らいで積もる灰を見下ろし、どちらともなく互いの顔を見る。
そしてふうっと溜息をついて緊張を解いた。
「……間に合ってくれて、助かった」
カルードの思わず零した一言に、ネヒストは一度は緩んだ眉屋根を怪訝に寄せる。
自警団の育成は順調に運んではいない――そんな本音が覗えた。
カルードは剣を振るって灰を落とすと、鞘へと収める。
そして外向きの笑顔を作ってネヒストに向けた。
「そなたの方が速かったな」
逆手に構えたカルードより、順手のネヒストの方が一手早くフェンリルに一撃をくれた。
「得物の差、ですかな」
ネヒストは謙遜を込めて言う。
ネヒストは騎士団支給の加護のついた長剣だがカルードはそうではない。ただ柄に工房の『カルード』の銘がある剣だ。
ネヒストは何か言おうと言葉を続ける。
「ガレ――いえ、ルネー殿」
「カルードでいい」
「ではカルード殿」
「あだ名に殿を付ける奴があるか!」
カルードは呆れたように声を張り上げたが、ネヒストは笑うでもなくカルードの顔を見ている。
カルードはネヒストに向かい、無言で魔物ハンター宜しく指でもって『近寄れ』と合図をする。無礼な仕草ではあるがネヒストは大人しく応じ、いつものように少し身を屈めて耳を向けた。
そんなネヒストを、カルードは小声で諭した。
「あまり下手に出過ぎるな。部下の心情も考えろ」
「は……」
ネヒストの率いる左中隊には、元ヘイスティングの部下もかなりの数がいる。カルードが何か命じれば無条件に従いかねない者たちばかりだ。
「中隊長……凄い……」
白騎士団の誰かが感嘆の呟きを漏らす。
騎士たちはヘイスティングという上官の腕前は知っていたが、その相談役だったネヒストの実力までは把握していなかった。
彼らの目には、二人の動きは互角に見えた。
フェルディナントはカルードを追って付いていた持ち場から出てきたが、何事か話している二人の様子を見て、離れた位置に突っ立っていた。
周囲にいるのは白騎士団の騎士である。
うち一人の騎士が、不意に涙ぐんだのが見えた。
懐かしさなのか悲しみなのかフェルディナントには窺いようもないが、人前で涙をぬぐっている様子を不思議な感覚で見ている。
今一人の騎士が近寄り、肩を叩いて宥めるように何か言っている。困ったような笑っているような表情の意味も、フェルディナントは理解できない。
ただ、今の自警団にこんな光景が見られるだろうか――?
そうフェルディナントは感じていた。