十八ノ七、神の印
フォウルはというと、イシュマイルの読み上げが終わっても暫く祈りの姿勢で祭壇に向かっていた。小声で何か呟いているのは、祈りの言葉なのだろう。
締めくくりに誓文と書類に手を触れると、祭壇にもう一度一礼した。
見よう見真似で一礼するイシュマイルに、フォウルが振り返る。
「うむ。本来はノア村に最も近いドロワ市での滞在が通例なのだが……現状致し方ないとしよう。君の目下の目的は、ガーディアン・バーツと行動をするということだね」
「は、はい」
「では。バーツ殿ともども、アリステラでの滞在を保障しよう」
フォウルはテーブルにある巨大な印を取り、書類と誓文そして帳面に割り印を押した。
「アリステラ聖殿がこれを認める――」
「さて、文書上の手続きは問題なく終わったわけだが」
フォウルは書類を箱に収めて封を施すと、イシュマイルへと向き直った。
「時にイシュマイル君。少し個人的に話を聞きたいが……良いかな」
「あ、はい」
「ありがとう。では」
フォウルは片手で、場を変えるよう促した。
祭壇を降り、イシュマイルを連れるとフォウルは礼拝堂の脇扉を抜けて庭先へと降りた。外は明るい日差しと、湖から吹き上げる涼しい風が手入れされた木々の間を抜けていく。
イシュマイルも緊張を解いて、一息つくことが出来た。
「――君は、ガーディアン・バーツの弟子ではないということだが」
フォウルは幾分声を落して、そう切り出した。
落ち着いた声でそう問われると、イシュマイルも正直に答えるしかない。
「はい……バーツはまだ弟子を取れる立場ではないそうで――シオンさんからもまだ誰に師事するかは決める時期ではない、と」
「ふむ」
フォウルは一先ずは納得したように頷いた。
「ロナウズたちからも聞いている。適合者としての調整もこちらで受けられるようにと」
「……はい」
「ところで君は、アリステラではタイレス族としての順応化を受け入れるようだな」
「――?」
順応化?と問い返す前に、フォウルは説明を始めた。
「見ての通り、アリステラには多くのオヴェス・ノア族が生活をしている」
「その殆どがノア族の風習や伝統を捨て、タイレス族化している。どう思うかね」
「どうって……」
「単刀直入に言わせてもらおう。君はバスク=カッド家に養子に入る気はないのかね?」
「――え?」
先ほどよりも間の抜けた声を上げた。
フォウルは、イシュマイルの答えはともかく話し続ける。
「ドロワでなくアリステラに来たのは、それが目的ではないのかね?」
「! そ、それは……考えたことも――」
ないといえば、嘘になる。少なくとも空想の上でなら。
胸に隠していた秘密を暴かれたようで、気恥ずかしさからイシュマイルも言い返した。
「僕は――今は、バーツの任務を手伝うのが役目だと思ってます」
「君のような少年が?」
フォウルも畳み掛けた。
「バーツ殿の任務については聞いている。とても安全な道行とは言えん」
「君にはとても才覚がある。バスク=カッド家に居ながら、この聖殿に通って学ぶことも出来る。ガーディアンに成らずとも、その能力を活かす生き方はあるのだ」
「……生き、方?」
ガーディアンに成らない未来がある?
イシュマイルは虚を突かれたのか、小声になって返答する。
「よく……わかりません」
「構わぬ」
フォウルの方も幾分言葉を緩めた。
「これはわたし個人の感情でもある。戯言と思うだろうが聞いてくれ。私は幼少の頃、バスク=カッド家の二代前の当主殿の世話になった。恩があるのだ」
二代前はロナウズらの祖父にあたる。アリステラ貴族として厳格であり、古いしきたりに重きを置いた。幼少のロナウズをバスク=カッド邸内で隠すように養育した人物でもある。
フォウルは少し落ち着いたのか、花壇の積み石に腰を下ろすと長い話を始めた。
「全ての間違いは、ロナウズでなくハロルドがガーディアンになったことだろう」
「ハロルド……ロナウズさんのお兄さんの?」
話でしか知らない人だが、強烈な印象を持って記憶にある人物である。
(そして、レアム・レアドの弟弟子――)
「ロナウズがガーディアンと成るべきだった」
フォウルはきっぱりと断言した。
「わたしは彼が幼子だった頃から見知っている。当然その能力もな」
「ロナウズさんが……」
「ハロルドのような事件を起こすこともなく……いや、そのハロルドもファーナムにさえ行かなければ、無事に家督を継いでバスク=カッド家は今も安泰だったろう」
フォウルの言葉は、何か引っ掛かりがある。
しかしイシュマイルにはそこまで考える余裕はなかった。フォウルの話は、一つ一つがイシュマイルの心に刺さるものだ。
「現状、バスク=カッド家のタイレス族は今のロナウズが最後になる。以後はノア族の子息が家を継ぐことになるだろう」
「それは……」
「ロナウズとラナドールの婚姻の裏には、バスク=カッド家等の旧勢力の力を削ごうという政治的な企みも働いていたのだ」
「……」
「これは戒律が破られた結果なのだよ。タイレス族がタイレス族であるためには、他の二種族と血を混ぜてはいかんのだ。アリステラは今にエルシオンに厳しい罰を与えられるだろう」
フォウルの表情は、落胆とも怒りとも取れない思い詰めたものだった。
イシュマイルには、フォウルの話は極端で感情的なものに感じられる。
「僕には……わかりません」
「先ほど話したであろう。姿形は似ていても、我々と彼らはまったく違う存在の種族なのだ、と」
「タイレス族と……ノア族が、ですか」
フォウルは頷く。
「タイレス族、ノア族、そして龍人族。外見は似ていて互いに子も成すが、生まれる子供にはどちらか片方の血統しか出現しない。これはどの神がその子に加護を与えるかで決まっておってのぅ」
イシュマイルは、今初めてその話を聞いた。
「我々の外見的な特徴は、いわば神の印……」
「印、ですか」
「うむ。そしてこれが一番肝心なのだが――」
フォウルは指を立てる仕草で説明する。
「三種族のうち、タイレス族が一番発現が弱いのだ。タイレス族は決して他種族を認めない、そうでなければ消滅してしまうのだ」
「……そんな」
「わからんか? ノア族が頭数としては極めて疎であるのに、独自の血脈を保っていられるのは何故か」
たしかに、とイシュマイルも思い当たる。
「だからサドル・ノア族は君を受け入れることが出来た」
歓迎はしないが拒絶もしない。もし子をなせばその子はノア族として発現し、その子孫もノア族であるだろう。
しかしその逆、バーツのような例は容易には受け入れられない。
タイレス族の強い戒めは、他種族への差別的な態度となって現れる。
「アリステラがオヴェス・ノア族を取り込もうとしたのは、まったく間違いだ。その報いを今受けておる。――しかしそれよりも恐ろしいのは、龍人族!」
イシュマイルはびくりと身を硬くする。
「龍人族は、三種族の中で最も発現が強い。奴らがこの国に踏み入ってくるということは、タイレス族、ノア族双方の血脈と文化が無くなるということだ」
「それはならん。断じて、ならん!」
フォウルの剣幕か、話の内容なのか。イシュマイルには正体のわからない怖さだけが伝わった。