十八ノ二、手のひら
――翌朝、アリステラ。
港町は朝早くから活発に人々が行き来しているが、貴族の邸宅街は静かに明ける。キーパーやメイドら屋敷の者が忙しく、しかし密やかに働いている頃。
イシュマイルは、不意に窓からの光で目を開いた。
見慣れぬ室内。
窓の外には、朝日を浴びる静かな庭。旅に出て以来、場所は変われど繰り返し見てきた光景だ。
(なんだろう……今日は静かだな)
いつになく落ち着いた気分で室内に視線を泳がせれば、ソファに凭れているレニの後姿が目に入った。
(……レム?)
考えるでなく、そう思った。
幼い頃。
サドル・ノア族の村、村外れの小屋にあって、目覚めるとレムことレアム・レアドがこうして傍らに居た。
大抵は目を閉じてじっとしているが、眠っているわけでない。イシュマイルが目覚めた気配を感じると、いつもどおりの顔で振り返るのだ。
(なんだか、久しぶりに思い出したな)
イシュマイルにとっては、レムが居なくなってからの二年間の方がせわしなく、思い起こされる事柄も多い。
けれど今日は、幼い日のことを思い出しても特に心はざわめかなかった。
イシュマイルはその理由までは考えなかったが、いつになく安心感があったからかも知れない。
レニはというと向こうを向いたままだったが、不意に両手を挙げて軽く伸びた後、その手を頭の後ろで組んで、また動かなくなった。
イシュマイルには、その様子が妙に可笑しい。
イシュマイルは笑い声を立てたわけではないが、レニは感じ取ったのか、振り返って慌てた様子でソファから立ち上がった。
「イシュマイル!」
元からレニの声は枯れているが、今日はいつもに増してハスキーに聞こえる。
「無事か? 大丈夫か? 具合はどうなんだ?」
まくし立てながらベッド脇に寄り、イシュマイルの様子を身を屈めるようにして窺う。
レニは食い入るようにイシュマイルを見ていたが、何かを感じ取ったのか安堵したように息を吐いた。
「……レニ」
イシュマイルは笑ったつもりだったが、思うより声が出なかった。
レニはベッド脇で膝立ちになると、その大きな手を伸ばしてきてイシュマイルの頭を撫でた。
「すまねぇ、イシュマイル。オレのせいで」
レニは本気でそう思っているらしく、声を落とした。
イシュマイルはというと大人しく頭を撫でられながら、レムはあまりこんなことはしなかったな、などと考えていた。幼い頃のことなので忘れてしまっていることもある。
「オレが……あいつを呼び寄せちまったんだろうな」
レニが口惜しげにつぶやくのを見て、イシュマイルにも夕べの記憶が蘇ってくる。
「あいつ?」
「そうだよ、タナトスのやろうだよ」
イシュマイルはしばし思い起こす。
夕刻の辻に現れ、イシュマイルに敵意のある仕草をしてみせた、あの白い影。
イシュマイルは、あの悪意のこもった微笑みを思い出して、言う。
「あれは、タナトスじゃないよ」
「タナトスだろ」
「あんな不気味な目をした野郎、他にいるかよ」
そう言ってからレニは、ふと思い当たってイシュマイルに尋ねた。
「……イシュマイル、いつタナトスに会った?」
知ってるのか? と問うレニに、イシュマイルはポツリポツリと答える。
「ううん。レニの言ってるタナトスとは……違う人だ。彼は、あんな目で僕を見たことなんて、なかったもの」
「……」
レニは釈然としないながらも、それ以上尋ねなかった。
同じ名の、別人。それだけのこと。
「とにかく――今度こそちゃんと守るから。あの野郎を近づけさせはしない」
レニは低くそう言ったが、注意を払うべき危険はそれだけではないことも、レニは知っている。
しばらくして、廊下を歩いてくる特徴的な足音が聞こえてきた。
バーツだな、と二人が思って扉の方を振り返ると、控えめなノックと共にバーツが扉の隙間から顔を覗かせた。
「……起きてるか?」
バーツは室内を見回し、ベッド脇にいるレニを、そしてベッドにいるイシュマイルを見て、笑みを浮かべた。
「顔色、良くなったな」
一安心したのか、そういうと体を滑り込ませるようにして室内に入ってくる。
歩きながらイシュマイルの様子を探っていたが、バーツもまた異変を感じなかったのか、一人頷いている。
「……ホントにお前って奴ぁ」
ベッド脇でその長身を屈め、バーツもレニと同じように手を伸ばしてきたが、レニと違いイシュマイルの頭を軽く小突いてくる。
「意外に手のかかる奴だぜ」
子供扱いされた気がして、その手を避けるようにしてイシュマイルは起き上がった。
「もう平気だよ」
「どうだかな」
バーツはいつものように皮肉を言うが、その口元は笑っている。
「とりあえずよ。朝飯は食えるだろ? それからイシュマイル、アリステラ聖殿に行こうぜ」
「……聖殿?」
予定にはなかったバーツの提案に、イシュマイルは首をかしげる。
バーツはそれには答えず、話を進めた。
「ロナウズの奴は謹慎中だからな。ラナドールと、途中までは俺もついてく」
「ふん」
不満そうに鼻を鳴らしたのは、レニである。
レニは口では反対はしなかったが、気乗りはしないらしい。
「じゃあ、オレは辻でも見張ってみるか」
レニは言い捨てると立ち上がり、外へと歩き始めた。
「あ、待ってレニ。朝食は?」
「いらねぇよ。この屋敷はオレには合わねぇ」
イシュマイルの制止も聞かず、片手だけあげて返事をすると、レニはさっさと扉から出て行ってしまった。
あとのことはバーツに任せる気らしい。
バーツが憎まれ口をたたく。
「あの野郎、イシュマイルを守るとか辻を見張るとか……言ってることがバラバラじゃねぇか」
「うん……」
イシュマイルは、レニの様子がおかしいとは思ったがそれ以上はわからなかった。
一方バーツは、レニとロナウズの相性がすこぶる悪いことに気付いて閉口したが、イシュマイルの前では口にしない。
(どっちも頑固だしな。何が原因かは知らねぇけど)
双方が顔を合わせたくないというのなら、いたし方ない。
現にロナウズの方も、イシュマイルの心配はしながらレニのいるこの部屋には顔を出していない。