二ノ五、ロナウズ
それから二日ほどは、何事も無く時が過ぎた。
宿舎に到着した翌日は、イシュマイルは疲れもあってか朝寝坊した。さらにその翌日は、宿舎が定める朝食の時間に間に合うように起きた。
バーツとアーカンスは、どこかに出掛けていた。
バーツはイシュマイルをして「意外に神経が図太い奴」とからかった。
イシュマイルの生い立ちや、環境の変化を考えれば、寝付けないだとか食べられない、と言い出すのではと内心心配していたのだが。
イシュマイルは慣れないベッドで大の字になって寝ていたし、隊員たちとは旧知のように話しが出来た。
アーカンスはそれを、むしろ背伸びしている子供なのだから、と気遣おうとしたがバーツは笑って一蹴した。
「考えてもみろ。あのギムトロスとレアム・レアドに育てられて、やわなわけねぇだろうよ」
イシュマイルは、たとえば食事のちょっとした作法だとか、タイレス族の習慣だとかいうものを、臆せずどんどん人に尋ね、身に付けていった。
相変わらずノア族の衣装を身につけることは譲らなかったが、それ以外は徐々に他の街の少年と変わらない様子になっていった。
――午後。
イシュマイルは厩舎にあって、自分が借り受けた竜馬の世話をしていた。水場につなぎ、甲羅についた泥や埃を洗い落としてやる。
イシュマイルは竜の年齢についてはよくわからないが、甲羅には所々緑色の苔がついていて、そのまだら模様で遠目にも固体が判別できる具合だった。
騎士団が騎乗する竜馬は、竜族の中でも『土竜』に分類される二足歩行型の竜で、頭と後ろ足が異様に大きい。
尾はほどほどに長く、前足は退化しており、戦闘では前傾姿勢で疾走して突撃するのである。
単に乗り物として便利なだけでなく、固体としての戦闘能力も高い。通常の歩行時には多少乗り心地が悪いのだが、高速で走り出すと揺れが少なくなるという特性があった。
これだけの重量と運動量のある大型生物であるにも関わらず、彼らは草食に近い雑食で、その量も多くを必要とせず、また絶食にも耐えた。その為兵站の面からしても都合が良かった。
それは竜たちが人間とは全く違うシステムでエネルギーを循環させているからなのだが、その説明は後に置く。
イシュマイルは何度も井戸から水を汲んで、竜にかけてやっていた。
井戸は、ハンドルを回すと水が上がって来る形のもので、幾分手軽ではあったが、何しろ相手が大きいので、その作業は労力を要した。
分厚い甲羅は大抵の弓矢も通さない。水の温度も伝わっているのかわからないが、頭に水をかけてやると竜は首を竦めるようにして瞼を閉じた。
多重構造の内瞼はガラスのように透けていて、深紅色の瞳を水滴から守った。
イシュマイルと竜の側に、静かに近付く人影があった。
しばらく様子を見ていたが、イシュマイルが気付かないので改めて声をかける。
「イシュマイル君」と特徴ある張りのある声で呼ばれて、イシュマイルは弾かれたように振り向いた。
ロナウズが、両手を後ろ手に、踵を揃えて立っていた。
真昼間の日差しの中で見ると、アリステラの制服は艶やかさを増して見える。
バーツなども人目を引く顔立ちや背格好をしているが、ロナウズは姿形から立ち振る舞いまで、全てが典型的な彫刻のようだった。
イシュマイルが手に桶を抱えたままでいるのを見て、ロナウズは笑みを浮かべる。
「邪魔をしたかな」
「……ロナウズ、さん」
ロナウズは数歩進み、竜の頭に片手で触れた。
竜は瞬時に片目だけ器用に閉じ、その後瞼を緩めると片方の眼球だけ動かしてロナウズを見た。そしてイシュマイルとロナウズを交互に見る。
「少しばかり時間が取れたものでね」
イシュマイルは段差から降りると桶を井戸の傍らに置いた。
間近に立つと、ロナウズを見上げる格好になる。
「何か、用ですか?」
「……」
ロナウズは少し間をおいた。
「ドロワの街は、もう見て回ったか?」
ロナウズはイシュマイルの方でなく、竜の背を見ながら話しをしている。
何か話しにくそうにしているな、とイシュマイルは感じた。
首を横に振って答える。
「いえ、まだです。バーツが、忙しいみたいで……僕も許可証が出てないから、一人で街に行けなくて」
「……そうか」
ロナウズはイシュマイルを見、薄い笑みで言う。
「君をある場所に誘おうとしたのだけれど、その様子では今日は無理そうだ。後日にしよう」
「?」
どこに、と尋ねようとして、声に出すのはやめた。
ロナウズは一方的にその件を終わらせ、余計な質問をさせる隙を与えなかった。
イシュマイルは、ふとロナウズの目元に影を見た。
ロナウズはまた竜の方に視線を戻してしまったが、その視界は別のものを見ている風だった。
それは先日バーツと話しをしている時に見せた、何かを邂逅する時の眼差しと同じものに見える。
(この人は――)
イシュマイルは、感じ取る。
(何かを追っている)
――イシュマイルは時折子供らしからぬ理解力で、相手を見抜くことがある。
それは経験からくる洞察ではなく、相手の感情に同調し、同じ感覚を得る能力だ。
ロナウズが追っているものは、そう、ちょうどイシュマイルがレムを追うのに近い。
何なのかはわからないが、イシュマイルはロナウズに親近感を覚えた。
(みんな、それぞれあるんだな……)
イシュマイルの脳裏に、この数日で出会った人を始め、何人かの顔が浮かぶ。その1つ1つに表と裏がある。
たとえばバーツは、見た目通りの粗野な男ではない。アーカンスは温厚そうに見えるが、実はバーツが手綱を締めて暴発を防いでいる。
ギムトロスはサドル・ノアに必要な人材だが、世界を回る夢をまだ捨てていない。公認で村から出られる日を今頃心待ちにしているだろう。
そしてレム。
穏やかな村で微笑んでいても、彼の心はいつもそこにはなかった。
改めてロナウズを見る。
ロナウズは指の背で、竜の飛び出した眼球の後ろ辺りを撫でてやっていた。竜は心地よいのかくすぐったいのか、グルグルという低い音を立てている。
その様子に、ロナウズは柔らかい笑みを浮かべる。
彼はイシュマイルがこれまで見る限り、礼節をもち穏やかだ。
所作の端々まで完璧で、時折貴族のような傲慢さを見せる様子は、ロナウズ自身が自分を常に高いところに保とうと努めているように見える。
イシュマイルがこの数日で見てきた騎士の中で絵に描いたような聖殿騎士であり、同時に異質な存在にも思えた。
――不意に竜が頭を揺らした。
ロナウズは手を止め、中庭の方を見る。
ちょうど顔を上げた視界の中に、二頭の竜馬が駆けて来るのが見えた。
バーツとアーカンスだった。
イシュマイルが気付いて後ろを振り返ると、バーツたちもこちらに気付いて手を振り、竜馬を駆けさせてきた。