十六ノ四、影
しばらくして。
食堂の用意が出来たので、エミルが屋敷に入るよう言付に来た。
夕食を前に、イシュマイルはレニを辻に置いてきたままであることを思い出す。
「僕、連れてくるよ」
イシュマイルは気軽に立ち上がった。
「私も行こうか」
ロナウズもそう言ったが、ロナウズはまだレニという人物を知らない。
イシュマイルは首を横に振る。
「そろそろバーツを助けてやってよ。辻まで一本道だし、僕一人で大丈夫」
迷うほどの距離でもないから、とイシュマイルは断言したが……。
ともかく、イシュマィルは一人で外に出て、来た通りに走って戻る。急いでいるから走ったわけではなく、イシュマイルの癖でもある。
拓けた道というのは落ち着かない。
貴族屋敷の立ち並ぶ区画は、今は人通りが少なく静かで、昼間庭に出ていた子供たちの姿もない。
ほどなくイシュマイルは、四辻に着いた。
しかし見回せど、そこにレニの姿はない。もとより『隠れていて』と言っておいたので、そうしているのかも知れない。
「レニ? どこ?」
イシュマイルは、短く声をかける。
辺りがあまりに静かで声が響くのだが、それがなんだか嫌な感覚を呼ぶ。レニを探して名を呼んでいるのに、あまり大声を出したくないという思いにかられた。
「居ない……よね」
急に暗くなっていく日暮れの時は、視界をも鈍らせるようだ。
すっくりと立つ物は、それが樹木なのか人なのかも定かでなく、人気がないのに複数の視線に囲まれているかのようだ。
イシュマイルが辻に背を向けて離れようとした時、不意に背後で人の気配がした。
(――危ない!)
そう叫ぶ自分の声が、頭の中で聞こえるほど、はっきりした敵意を感じる。
イシュマイルは咄嗟にその場から飛び退き、武器を求めてベルトの辺りを探る。
が、何もない。
全てバスク=カッド邸に置いてきている。
「誰! レニ?」
レニであるはずがないのも承知で、声に出す。
何か現実味のあることをしないと、この空気に呑まれそうだった。
この感覚、覚えがある。
ぞくりと背筋が凍る。
灰色とも、紫とも付かない影に、視界が覆われる時間。
交差する辻道だけが白く見える。
まさに逢魔ヶ時。
生きている者の姿は朧気になり、異界の者の性は露になる。
「……くっ」
体が強張り、イシュマイルは頼りない視界を鮮明にしようと、目を見開く。
四辻の真ん中で、白い影が一つの形になった。
ぼんやりとしていたその人らしき影が、ゆらりと揺れるとこちらを見た。
次第にその顔立ちも、見つめてくる瞳も、身に付けた衣装までが鮮明になってくる。
イシュマイルは得も言われぬ恐怖に襲われる。
白い影が、笑みを浮かべる。
(……タナ、トス?)
透け入るような白い影は、銀の髪までも白く揺らめく。白い炎に包まれているかのように。未だ霧のような姿をした『タナトス』は、そっと片手を差し出しイシュマイルを指差した。
その動作は、術者が術を行使する時に見せるものだ。
まっすぐに指を指され、イシュマイルは武器を突き付けられたように全身が固まる。
逃げるには遅すぎた。
(――来る!)
白い影がその唇を、物言うように動かした。と思った。
その時。
この凍りついた空間を、外から破る者がいた。
「イシュマイルッ!」
レニの怒号が響く。
イシュマイルを庇うように前に出て、その拳を白い影めがけて振りかざした。
白い影は、煙が払われるように揺らぎ、消えたかと思うとすぐ近くにまた現れた。
レニは逃さずこれを睨み、対峙する。
レニの両手に、術で形成された槍が現れ、握られる。
「消えろっ!」
レニは槍を振り回し、その白い影を攻撃し続ける。
白い影は、レニの武器をまるで受け付けなかったが、ふっと消えてはまた現れることを繰り返した。イシュマイルの目には、その白い影は影などではなく、半分空気に透けた人間に見える。
その挑発的に笑う表情も、動くたびに翻る衣も、細かい生地の風合いまでが鮮明に見える。肩から流れる長い髪と、羽織った薄地のマントが踊りの装束のように風を含んで美しく靡く。
ただ、何の音も聞こえず色彩も無く、その人の声も聞こえない。
(タナトスじゃ……ない)
イシュマイルの知っている、あのドロワのタナトスではない。
なぜかそう思った。
あのタナトスにはない貫禄、あるいは底知れない悪意を感じる。今目の前に居る白い人からは、破壊の衝動とそれを行使する享楽さえ感じる。
「――タナトス! てめぇっ!」
怒り心頭のレニが、怒鳴ると同時に鋭い突きを見舞った。
手応えがあった。
今の今まで空気を切るようだったのが、渾身の一突きによってその白い人の肩に突き刺さる。マントの肩口が裂けた。
白い人影は、一瞬驚きの表情を浮かべたが、また悪意の笑みでその容顔を歪ませた。
長い指で破れたマントの肩を押さえ、そしてそのまま消え入った。
暗い夜の中に。
「……っ?」
レニは気配が消えたのを感じ、それでも警戒して周囲を見回す。
イシュマイルの耳に、自分の名を呼ぶ、誰かの声が聞こえる。
耳元で。
企みに誘うような声で。
イシュマイルは気が付くと、地面に座り込んでいた。