十六ノ一、平手打ち
第二部 諸国巡り
十六、静かなる前触れ
バスク=カッド邸に着いて間もなく、夕方の陽射しが強くなってきた。
アリステラ市に到着した時点ですでに遅かったのだが、バーツたちはまっすぐにロナウズを訪ねたために宿の手配などもしていない。
済し崩し的にバスク=カッド邸に泊まることとなる。
屋敷で働く者たちは急な来客に慌しく準備に追われたが、ロナウズとラナドールはその素振りを見せず、バーツとイシュマイルをもてなした。
執事エミルは傍らで、主人とその来客のために、夕食前の軽い茶と菓子を奉じている。
「じゃあ、アリステラの聖殿騎士団は今もちゃんと動いているんだな」
「もちろんだ」
バーツとロナウズは、窓際の隣り合った男性用のソファにそれぞれ座り、その手にカップを持ったまま話している。
ラナドールとイシュマィルは少し離れて、一つのソファに並んで腰掛けている。
ロナウズが手振りで説明している。
「今回ドロワ市に出向したのは、騎士団の半数程度だ。副団長と残りの騎士らが居残ったわけだが、今私に代わって騎士団を指揮しているのがその副団長というわけだ」
「あれで半数だったのか。……しかし、それだけの人数が街の外に出払ってて大丈夫だったのかよ?」
バーツは茶を楽しみながら素朴な感想を口にしたが、ロナウズは笑って答えた。
「アリステラの守備軍は、聖殿騎士以外にあと三つある。ぬかりはないよ」
「三つ? じゃあ頭数でいうならファーナムより多いくらいか!」
「当然だ。ノルド・ブロス帝国の内海からの攻撃と……ファーナムにも警戒を怠らないでいる。これでも足りないくらいだ」
ロナウズは冗談とも付かない言葉を、バーツ相手にさらりと言う。
「まったくだ」
バーツはただ笑って答えたが、実際にはファーナムとアリステラの兵力は拮抗しているという。双子都市と呼ばれる所以がここにもある。
エミルが不意に口を開いた。
「失礼ですが、御幾つでいらっしゃいますかな」
エミルは、先ほどから一人口数が少なくなっているイシュマイルに、気を配ってやっている。問われたイシュマイルはというと、こういう話題には不慣れで返答にも戸惑っていたが、バーツが助け舟を出して横から代わりに答える。
「実はな、ドロワでは十七歳で申請して通っちまってるけど、本当は十五ってところだな。正確な数字はサドル・ノア族の暦でないとわかんねぇけどよ」
バーツは嘘を交えて説明した。
エミルは機微良く察し、話題を変える。
「ほぅ。では当家のお嬢様方より、年上でいらっしゃいますな」
バーツがロナウズに問う。
「へぇ、娘さんかい」
「上の娘が十一、息子は七つだ」
ロナウズが答えると、ラナドールが後を継いだ。
「それから私の姉の子と、母方の子がいます。十三の女の子と、男の子は九つと七つですわ」
「大所帯だな」
「オヴェス・ノア族の慣習だな。義姉夫婦は昔ながらのオヴェスの隊商一家だ。……今頃は、国境など越えて砂漠のどこかだな」
ロナウズは目を細めて微笑む。
「――オヴェスか。それで? 五人とも、タイレス族の神学校か?」
バーツは複雑な気分でいながら、とりあえずと訊いている。
ロナウズが答える。
「いや、娘二人は祭祀官の養成所だ」
「えぇ? 十一で? 普通は十五までは神学校に行くもんだろ?」
「……血筋かな?」
ロナウズは冗談めかして答えたあと、付け足した。
「アリステラでは飛び級はよくあることだ。個々の能力を優先する傾向が強いんだ」
「今は、フレイヤールの養成所に入ってる。女の子で祭祀官になる子は大抵あそこに行くな」
フレイヤールは十二聖殿の一つ、フロント聖殿に所属する祭祀官養成機関である。
フロント市は、ガーディアンであるアイス・ペルサンの出身地でもある。
別名を『花の都』と呼ばれるフロントだが、かつては『魔女の棲家』とも揶揄され、今でもサドル・ムレス都市連合の中では浮いた存在である。
「男親としては心配じゃねぇの?」
小声でからかうバーツに、ロナウズはしれっとした態度で答える。
「アリステラの女性を甘く見るなよ? ……君も会っただろう、あの団長に」
「……あぁ、アレ」
バーツは、サグレスの話題に触れると厄介そうに眉を寄せる。
ロナウズは珍しく声のトーンを落として言う。
「彼女の胸に見惚れて、平手打ちを食らった男は何人もいるそうだ。相当強烈らしいな」
バーツは内心でヒヤリとしながらも、興味が無さそうに鼻で笑う。
「あんたはどうなんだよ? 食らったのか?」
「私はそんなヘマはしない」
男二人のヒソヒソ話は、執事エミルの咳払いで中断された。
ラナドールは聞こえているのかどうか、素知らぬフリでカップに唇を付けている。
イシュマイルはというと、借りてきた猫のようにソファに沈み込みながら、時折ラナドールを見ていた。
サドル・ノア村では殆ど年上の女性にばかり囲まれて暮らしてきたイシュマイルだが、ラナドールは他のノア族の女性とはタイプが違って見えた。
サドル・ノアとオヴェス・ノアでは、同じノア族でもかなり違うのだろう。何より、ラナドールはノア族というよりもアリステラ女性なのである。
ところで、エミルに咳払いされたロナウズだが、さすがに決まりが悪くなったのかカップを置いてソファから立ち上がった。
そして手持ち無沙汰にしていたイシュマイルに、「庭に出よう」と声を掛けた。
慌てたのはバーツである。
イシュマイルはさっさと立ち上がり、エミルは手早く食器を下げにかかる。
「ちょっ、ロナウズっ? 待てよ、お前ら!」
笑っているラナドールに後を任せると、ロナウズはバーツを置いて退室した。
「……あいつ」
バーツは悪態をついて見送る。
ただでさえ女性の扱いが苦手なのに、友人の奥方と二人きりにされるというのは、居心地が悪い。
ラナドールはまだ笑っていたが、居住まいを正すと穏やかな声でバーツに話しかけた。
「……子供の頃、何度かオヴェス・ノアに来たでしょう?」
バーツもしぶしぶと、ソファに腰掛けなおして答える。
「あぁ、節だの禊だのと……何か儀式があるごとに、何度も連れて行かれたなぁ」
そしてぼそりと言う。
「正直、俺は苦手だったけどな」