二ノ四、ハロルド
バーツとイシュマイルが宿舎に戻る頃には、すでに夜になっていた。
二人がホール足を踏み入れた時、ちょうど夜の食事が終わったばかりらしく、大勢の兵や騎士が行き来して雑然としていた。
「うわぁ、広い……」
建物の内部はまず広いホールがあり、そこからいくつもの回廊が続いて棟が並んでいる。バーツたち遊撃隊に宛がわれた部屋は建物の奥の方だ。
イシュマイルは天井の見事な絵だとか、昼間のように明るく照らす灯りだとか、そういったものを眺めて上を向いていた。
「おいおい、人の波に流されんなよ?」
バーツが、イシュマイルのマントを掴んで引き戻す。
イシュマイルは視線を戻すと、バーツの手をもぎ取るようにして言い返した。
「みんな同じ格好だよ、バーツ以外は」
そして、改めて周りを見回す。
「バーツと同じ騎士団の人たち?」
「いやぁ見たことない服装のもいるな。だが大方のは、アリステラ騎士団のようだな」
イシュマイルはまだマントの襟を直している。
「アリステラって、あの街道のところにいた……」
「交代でずっと張り付いてるんだろうな。ご苦労なことだ」
まぁそれが仕事だけどな、とバーツは軽口を言った。
そして、とりあえずは部屋に行こうと歩き出した時、その背に威圧的な声がかけられた。
「そこの二人、待ちたまえ」
典型的な聖殿騎士といった声音だった。
バーツが斜に構えて振り返ると、そこには案の定制服をきっちりと着込んだ、体格の良い男が立っていた。
「ここは一般人、特に子供は立ち入り無用だ」
「……」
バーツは真正面に向き直ると、腕組みの格好で相手を見上げた。
色素の薄い涼しい目が、長身のはずのバーツを見下ろしている。
バーツの目を見、何かに気付いたように男は言う。
「……ガーディアンか」
そしてバーツが制服を着ていない理由を察したらしい。
「だが、子供は立ち入るべきでないな」
「……子供じゃねぇ」
子供、と言われたイシュマイルの代わりに、バーツが答える。
「それに、一般人でもねぇ。レンジャーだ」
「ほう……?」
男は視線だけをイシュマイルに向けた。
イシュマイルは射抜かれたように背筋を正したが、男はしばしイシュマイルの身なりを見る。そして「ノア族」と呟いた。
イシュマイルもバーツに負けていない。
それが何か? というように顎を上げて男を見返した。むっとしたわけではないが、あまり気分のいいものでもなかったからだ。
すると男は意外にあっさりと態度を変えた。
「いや、なんでもない。失礼をした」
そしてバーツに視線を戻し、片手を差し出す。
「私はロナウズ・バスク=カッド。アリステラ騎士団の団長を務めている」
バーツも腕組みを解いて、握手に応える。
「ファーナム第三騎士団のバーツ・テイグラート。こっちは、うちで雇ったレンジャーのイシュマイルだ」
バーツは適当に握手を交わしながら、イシュマイルを視線で示して紹介する。
ロナウズはバーツから手を離し、次いでイシュマイルにその手を差し伸べた。
「あ、どうも……」
イシュマイルは握手の習慣に慣れておらず、見よう見まねに手を出した。
そして「イシュマイル・ローティアス」とだけ言う。ロナウズは軽く頷いて、その手を取った。
その時だった。
イシュマイルは、視界が揺れたように感じた。
あるいは、色彩がなくなったかのように感じた。
それが何かはわからないが、鮮烈な記憶がよぎった気がした。
だが傍目には普通に握手をして、普通に手を離したように見えた。
バーツはロナウズの顔を見、そして思い当たったように言った。
「もしかして、あんたハロルド・バスク=カッドの親族か何かかい?」
言われたロナウズは、少し驚いたようにバーツを見た。
「あ……? あぁ、いかにも。ハロルドは、私の兄だ」
そして今握手した右手を、左手で触るような仕草をし、それから両手を後ろ手に組み直す。改めてバーツに答える。
「――そう、兄はファーナムの騎士団長だったな」
「おぅ、あの人の弟か! 感激だぜ」
バーツは急に上機嫌になって声を上げた。
「兄弟揃って団長かよ。すげぇな」
ロナウズは兄の名を聞いて僅かに表情を硬くしたが、バーツの喜色満面の様子に頬を緩めた。
そしてその堀の深い眉根に、影を浮かべる。
「いや……兄には最期まで追いつけなかった。今でもそれが残念だ」
それは謙遜ではなく、彼の本音でもあった。
バーツも懐しがるような笑みになり、視線を下げる。
「俺は、あの人に憧れて騎士になったようなもんだ……。一度くらい同じ戦場に立ちたかったぜ」
「……あぁ」
二人は意気投合したらしく、同じ記憶を辿ってかしばし無言になる。ハロルドという人物は故人らしい。
一人放って置かれたイシュマイルだが、はばかりながら声をかけた。
「あの……バーツ?」
「あ、悪ぃ。つい、な」
バーツは、もう一度ロナウズに振り向き、片手を挙げた。
「じゃ、慌しくてすまねぇな。のちほどな?」
ロナウズもバーツに合わせてか、気さくな態度になって片手を挙げる。
「許可証はちゃんと提出しておいてくれよ」
バーツはイシュマイルの肩を抱くと、歩き出した。
「……バーツ、知り合い?」
イシュマイルは小声で尋ねる。
バーツは緩やかに首を振る。
「いや、そうじゃねぇよ。さっき言ってたハロルドって人はな、ファーナムじゃすげぇ人気者だったんだ」
バーツは、イシュマイルに子供のような笑みを向ける。
「俺らがお前くらいのガキの頃には、ちょっとしたヒーローだったんだよ」
「……ふぅん」
イシュマイルは子供扱いされて、呆れ顔で返して見せた。
(ロナウズさんに……ハロルドさん、か)
そして、そっと後ろを振り返ってみる。
ロナウズはまだその場にいて、こちらを見ていた。
そしてイシュマイルと視線が合った。
(イシュマイル・ローティアス……レンジャーといったか)
一方のロナウズも、イシュマイルの名を記憶した。
二人が廊下の向こうに消えると、ロナウズは自分の右手をもう一度見た。
そして内心で呟く。
(先ほどのあれは……妙な力を感じたが)
ロナウズも、握手の瞬間に痺れたような気配を感じていた。
ロナウズにはガーディアンを識別出来るという特殊な能力がある。だからバーツを一目見て、それだと気付いた。
だがイシュマイルの時は少し違った。
違いはしたが、それに似た何かだとロナウズは確信した。
(レンジャーというより、あの感覚はどこかで……)
様々に疑問が湧き上ったが、それ以上にロナウズは多忙でもあり、仕事に戻ろうと踵を返した。
歩き出そうとして、不意に思い出して振り返る。
(そうだ、ハロルドだ――!)
イシュマイルたちは、とうにその場からいなくなっている。
「……」
ロナウズの脇を、部下の騎士が敬礼しながら過ぎる。
ロナウズは顎を引くようにして会釈を返し、また後ろ手に手を組んだ。
そして古い記憶を掘り起こす。
(あの少年、ハロルドの幼い頃に……似ているのだ)
ロナウズは兄と過ごした幼少時代を思い出していた。
のちに騎士として名を成す兄は、幼い頃から快活そうな目をした、どこか人を惹き付ける魅力を持った子供だった。やがてハロルドは成長するにつれ、何かに導かれるように一気に高みまで登りつめて行く。
ロナウズは身近にいる者として誇りに感じると同時に、その流れの早さに戦慄を覚え、恐怖すらしたものだった。
兄を突然失った後も、不可解なことが山ほどある。
今思い出すのは、兄の少年時代――。
イシュマイルは、それにとてもよく似た目をしている。
(化けるのかも知れんな……いずれ)
イシュマイルは口調にしろ、態度にしろ、かなり幼い印象を他人に与える。
けれど他人と話す時、今のように大人を見上げる時の目はハロルドに似て物怖じせず、切れがある。
(彼もまた、何かのきっかけで……)
ロナウズは、イシュマイルにハロルドの記憶を重ねてか、そんな感想を持った。
そして哀れみの眼差しで、虚空を見つめる。