十四ノ七、幼き眼
タナトスの今使っている屋敷は以前タイレス族の豪商が建てたもので、外側こそ優美だが内観は野性味に溢れている。
屋敷内の部屋の半分までが幼龍のための場所で、特に寝床にしている地下室は龍族の生態に合わせて湿度を高めてある。
調度品などはそれなりに豪華だったのだが、幼龍たちが齧ってしまったために管理人によって取り払われた。
今あるカウチ――というより石造りの長椅子などが、不便でない程度に据え付けられている。
扉も窓も開け放たれたままにされており、昼間の日差しと風が室内を通り抜ける。井戸からの水で、ここの庭園だけは辛うじて植物が生い茂っていて美しい景観を作り出している。
カーマインが騎乗して来た翼竜が、今は緑の中で体を休めてまどろんでいる。
眺めはいいが、警護とか防衛などという備えは全くない。
堅い長椅子には、光沢のある分厚い布が掛けられている。
タナトスがそこに凭れて幼龍と戯れている様は、宮殿での計算された艶やかさとは別種のものだ。
カーマインはその光景を立ったまま見下ろしている。
足元を別の幼龍が這う。
寝床に向かう道すがら、カーマインの靴に擦り寄って甘えていく。龍族に慣れていない者にはとても長居できない部屋だ。
「お前は今の龍族の子の知能を泥竜より低いといったが、何故そのような状態なのだと思う?」
タナトスの問いに、カーマインは答えは知っているが口にはせず、首を傾げる仕草で応えた。
タナトスが続ける。
「かつて龍族の生態の中で、幼生体は他の龍族・竜族の餌になっていたからだ」
タナトスは、幼龍の額を撫でてやりながら言う。
「食われゆく者に思索する知性は不必要……逃げ延びる本能を支える知恵と、逃げ損じた時に楽に死ねる体があればいい」
捕獲された瞬間に、体が麻痺して痛みを感じなくなるか、ショック死するという。
タナトスは冷淡な声で呟きながら、手元では幼龍を優しく撫でてやっている。
幼龍の姿は、鰐に似ている。
大きな頭と長い胴体をか細い四肢で支えているような体格だ。今は、安心しているのか床に胴体をゆったりと降ろしている。
龍族には喉、顎裏辺りに特有の骨がある。
口蓋の構造上、人族のように話すことはできないがこの骨を震わせることで人の言葉に似た、抑揚のある音階を発することが出来るという。
今はまだ喉の奥で猫のような音を立てて甘えている。
「その理屈でいくと」
タナトスは続けた。
「我々人族もまた、かつては食われる側の種族だった……ということか」
「――兄上」
カーマインは、時折このようなタナトスの様子に不安を覚える。
タナトスは話しながらも幼龍しか見ていない。
「この子らも、いずれ急激に知能が上がり、古代龍の眷属として成長する。私としてもそれが一番興味を惹かれるところであるが……」
「しかし、何年……いや何十年先かな」
そしてタナトスは、不意に切り出した。
「私は……お前が皇位を継いでもいいと思っている」
「兄上!」
カーマインは怒声で遮ぎろうとしたが、タナトスの目は幼龍の瞳の奥を覗いている。
「お前を皇帝に推す声、日増しに高くなってきている……私は行動を自重する。しかしあのライオネルをこのまま遊ばせておくのは、得策ではない」
「私は。兄上のご命令とあらば、一将として軍を動かすことも――」
カーマインの声は、タナトスの頭上を素通りする。
「お前はそうであっても、お前の周囲の者たちは? お前の次の代はどうか?」
「……」
「あぁ、そういえば婚姻が決まったのだったな。まずは祝意を表しておこう。政略結婚ではないが、良い相性ではないか」
「兄上……私は」
言葉を繋ごうとしたカーマインを、再びタナトスが遮った。
「プロテグラ家の娘をよくグロリア殿が許したものだ。これでお前が皇位を継げば、アステア家がアウローラ家を飲み込むだろう」
皇子三兄弟はタイレス族の暦でいうなら三十年に達するが、長寿である龍人族の慣習ではまだ成人として認められていない。
まず肉体的に完成し、龍族にそれを認められることが一つ。
さらにもう一つには、首長などの地位を得る為には婚姻して子を成し、その子が一定の成長度に達する必要がある。
まして皇帝の息子たちとなれば尚更その基準も厳しくなる。
カーマインの援護者は、とにかくカーマインを他の二人より先に成人にしようと画策した。
カーマインの周囲には、援護者に紛れて反タナトス派が居る。
カーマインの母・グロリアの一族アステア家は、カーマインを次期皇帝に推しており、明確に反タナトス派の筆頭である。
カーマインにとって、これは板挟みの状態だった。
「兄上。それでは一門独裁になってしまいます。龍人族の掟として、それだけは破ってはならない」
「……固いな」
タナトスの口調はあまり興味がない、といった風だ。
「九族は力を失い八門も二門までが潰えた。残る百官も散じ……お前たちが仕切るしかなかろう」
帝政を敷く前のノルド・ブロスには『上正院』と呼ばれた各種族の代表からなる議会があった。龍人族、タイレス族、ノア族からそれぞれに複数の代表者を立てる。
龍人族からも各地の名家が出て連帯を守り、今は無きアスハール家もその一門を担っていた時期がある。
しかし今は帝政。
一人の皇帝が全てを纏める。
「世界には両極がある。光に闇があるように、太陽には月がある。だが『彼ら』が同じエルシオンの光を纏う者であることは、誰の目にも明らかだ」
「そして龍族・竜族は共に闇。我ら龍人族とて近付き過ぎれば命を落とす。しかし無くてはならない存在」
謡うような声。
「何故に我ら龍人族は、龍の眷属足り得るのか。人の形をしてなお龍の生態に近い我らは、タイレス族やノア族と何が決定的に違うのか……」
カーマインはいつしか、反論の言葉を失くす。
「私が龍の子を育てるのは……彼らと渦の関係を見てみたいからだ。何故彼らが闇に傾いたのか」
タナトスの瞳に、赤い色が射す。
「この大地で最も優れた彼らが、何故闇の眷属なのか。渦の中で何を見ているのか……」
渦を通して、世界を見たい。
「今ある形がいかにして成り立ったのか。どちらを向いているのか。――それを知りたい」
単純で、性急な願い。
「これを強欲というのなら、そうかもな……」
カーマインの目には、タナトスの望むものが此処には無いのだと、そう感じられた。