十四ノ四、フェンリル
「その者、名前を名乗りましたか」
シオンは、一度は驚きを表情に出したものの、すぐに冷静に話しを進めた。
ギムトロスは答える。
「あぁ、自分をフェンリルと呼べなどと俺に言った。……なんでも母親の旧姓だとかで、偽名にはちょうどいいでしょう、とか言いやがった」
それは、タナトスに瓜二つの帝国の間諜が名乗った名前だ。
今回はタナトスではなく、フェンリルと名乗った。
「母親の……? フェンリル?」
タイレス族の姓としては、珍しいというほどでもない。ただシオンは妙なひっかかりを感じている。
「その者、どんな容姿でした? ――そう、ガーディアンでしたか?」
「ガーディアン?」
ギムトロスは、ガーディアンを見抜く能力はない。しかしバーツやシオンと会って、レムとの共通点は感じていた。
先ほどの帝国の間諜と名乗る少年にも、似たものを感じる。
「さぁなぁ。俺は龍人族に会うのは初めてだからな。なんとも言えん」
ギムトロスは明言は避け、とにかく目に付いた特徴を口にした。例えば、肌や瞳、髪の色、体格や服装などである。
「……」
シオンの中で、一つの仮定が生まれた。
恐らく、イシュマイルがドロワで会ったタナトスと、ギムトロスが今しがた出会ったフェンリルは、同一人物だろう。
そして彼はそれを隠そうともしていない。むしろ、シオンにわかるようにサインすら送ってきている。
シオンならずとも、その影に不気味さを感じる。
(しかし、私の前には決して出て来ようとしない……これは)
もしや……。
「一つ、ある方向の予測を立ててみました」
シオンは不意に口にした。
「ある方向?」
「まずその間諜だという少年。身分はわかりませんが、帝国の……タナトス派かニキア派の者でしょう」
「タナトス? ニキア?」
「タナトスとは帝国の現在の皇太子、そしてニキアはその生母にあたります」
ギムトロスはまだ首を傾げている。
「先ほどその間諜の容姿をお聞きしましたね」
「あぁ」
「私はその皇太子タナトスの実物を見知っている。貴方が今仰った特徴ととても似ています」
「……あぁ」
「そして貴方はその姿もまた、仮の物だと看破した――」
「……」
ギムトロスは、意味もわからず頷くだけだ。
シオンは言う。
「模倣魔術というものがあります」
「模倣……?」
「あるものの形を真似たり名前を借りることでそのものの力を得るという、魔術としては原始的なものです」
例えば熊の力強さを借りたいなら熊の毛皮、鷲の戦闘力を借りたいなら鷲の翼を真似て、その一部を身に付けたり着飾ったりする。
対象が人の場合でも、例えば老人や女性、子供の姿などを真似てその者の持つシンボル的な力を借りるという、古い系統の魔術である。
タナトス・アルヘイトが、古い祭祀官の衣装を着て女性的に振舞っているのも、この模倣魔術に因る部分がある。母ニキア・アルヘイトの存在と能力を模倣するのである。
彼女に成りすましてそのカリスマ性を借りることが一つ。さらにはニキア独自の術を間接的に行使するためである。
「その間諜がタナトスの姿を借りているのは、その姿でないと出来ない何かがあるのかも知れません。それからもう一つ――」
シオンは続ける。
「フェンリルというのはニキアの信奉者たちが好んで使う仲間の組織名でもあるんです。彼女はタイレス族だったんですよ」
「どういうこった?」
さすがにギムトロスには、なんのことやら理解できない。
「ニキア・アルヘイトは龍族にすら一目置かれたほどの高位の祭祀官だったそうです。そして、その能力はエルシオンに直接アクセスできたともいいます」
ニキア・アルヘイトの存在感はノルド・ブロス帝国内では今なお大きく、ニキア亡きあとも息子であるタナトスが廃嫡されずに皇太子として居られるのは、ニキアの信奉者たちが彼女に代わってタナトスの後盾になっているからだ。
「ノルド・ブロス帝国には、タナトスを支援するニキア派の信奉者の一団が確かに存在する」
そしてシオンは、彼らが今回の様々な事件の黒幕ではないかと疑っていた。
「そのフェンリルと名乗る者、目的はわからないがイシュマイル君の名を口にしたのなら、近づけてはならない。危険だ」
「……イシュマイルが、か?」
「えぇ」
シオンはあっさりと肯定し、ギムトロスは今更ながら身構えた。
「イシュマイル君は今、スドウではない別の地に向かっています」
敢えて目的地をアリステラであると言わなかったのは、ギムトロスの無意識を通して、間諜フェンリルに悟られないためである。
「ふぅん……なら、俺は奴らの目からイシュマイルを遠ざけた方がよさそうだな」
「やって頂けますか」
「どのみちファーナムには行くつもりだったんだ。素知らぬ顔をしてファーナムに入ってみるか」
ギムトロスは、急に面白くなってきたと言わんばかりに上機嫌になる。
「そうだな、バーツ殿だけがファーナムには行かないっていう偽情報を流すのも手だな」
「――ぇえ?」
今度はシオンが首を傾げる番だ。
ギムトロスは思いついた案を説明する。
「イシュマイルの建前上の役目は遊撃隊のガイドだから、イシュマイルは遊撃隊と共に居ることにする。バーツ殿は別行動ってことで、どこに居るのか見当も付かない。――ま、あんたと通じてるバーツ殿がファーナムに居ないとなれば、奴らファーナムに的を絞るんじゃないか?」
「……乱暴ですね」
シオンは苦笑いしつつも、ギムトロスの案に反対はしない。
「では、ジグラッド・コルネスという人物に会って下さい」
代わりにアドバイスとして一案加えた。
表向きには、ジグラッドへの個人的な書状をギムトロスに預けるというものである。
ジグラッドがドロワ市で行った援助に対する謝意の礼状、それを届ける役目としてギムトロスとフェンリル、二人分の通行証をシオンの名で発行するのだ。
「あいつの分まで通行証を?」
「えぇ」
シオンは笑みで頷くだけだ。
これは猫の首に鈴というところだろう。これにより、このスパイがどこまでこの証を使ったかも、わかる。