十二ノ九、エンシェント・スペル
ヘイスティングの命を受けて、白騎士団がバーツの援護へと駆けつけた。
彼らが目にしたのは、今まさに悲鳴のような鳴き声と共に砕け散る翼竜の姿だった。見れば、樹木の幹に身を預けているレニと、それを取り囲むように矢を番えるアーカンスらの姿がある。
一連の戦いを見たのは周囲に展開する遊撃隊と、それにに混ざって援護に参加していた幾人かの白騎士だったが、彼らにも何が起こったのか理解できてはいなかった。
レニはなおも幹の根元に座り込んでいる。
(体の自由が……きかねぇ)
立ち上がろうとしても、体は鉛のように重く身動きが取れなかった。
イシュマイルはレニを真正面に見据え、冷淡に言う。
「動かない方がいいと思うよ。魔力を使ってバテてるだろ? 丸腰で騎士団相手に戦えないと思うよ?」
バーツが、イシュマイルの横に立並び、様子を伺うように顔を見た。
イシュマイルは答えるように言う。
「僕はレムに……レアム・レアドにその戦い方を教わっていたんだよ」
「龍人族の術を、龍人族から直にね」
レニがたまらず口を挟む。
「レアム……だとぉ?」
「じゃ、てめぇか! レアム・レアドの弟子ってのは!」
「――違うよ」
レニの言葉に、イシュマイルは即座に答える。
「それは、違う……」
イシュマイルは、自分の手のひらを見る。
さきほど力任せに握り締めた拳が、爪を掌に食い込ませ、血を滲ませていた。
「……おい、イシュマイル?」
気遣うバーツの目の前で、鮮血は蒸発でもするかのように、白く揺らめいて消えた。
あとには傷跡一つ残っていない。
(自己治癒、か。しかしいつの間に?)
イシュマイルは無言のバーツに答えようとしてか、独り言のように呟く。
「ギムトロスは僕にタイレス族の言葉と文字を教えてくれたけど……レムが教えてくれてたのは、エルシオンの言葉だったんだ……」
「なに?」
バーツの表情が変わる。
「今の今まで、忘れてたなんて……」
どうしてだろう、とイシュマイルは繰り返した。
イシュマイルが詠唱したのは、龍人族とエルシオンが互いの交信のために創ったという、とても古い魔法言語である。見聞きすることを許されているのは、ノア族の族長や、聖殿の高位祭祀官くらいのもので、通常の生活で接する言語ではない。
(しかし……いくらレアムが仕込んだからって、そうそう出来ることじゃねぇぞ?)
バーツはまだ信じられない。
特にその発音は独特で、ネイティブでないタイレス族やノア族には、習得の大きな壁とされている。
イシュマイル自身、今の自分の行動が理解できていない。
「僕は……もしやタイレス族でもなかったのかな……?」
タナトスから飛行の術を得た時も、考えるより先に体が動いた。
今も、記憶の扉が開いて言葉が溢れるように呪文が出てきたけれど、その内容までは把握していない。
まるで必要になると見越して、予めセットされていたかのようだ。
イシュマイルは頭でも痛むのかこめかみを抑えて目を閉じる。
「――おい、イシュマイル。大丈夫か? お前」
バーツは不意に、イシュマイルの様子が変化したことに気付いた。
一方レニは、すっかり観念したのか幹に凭れたまま、ぐったりとしていた。
複数の剣と矢先を向けられ監視されていたが、それも無視して目を閉じていた。
が、不意に赤い瞳を開き顔を上げた。
「待て!」
唐突に鬼気迫った声で、人垣の向こうにいるイシュマイルを制止し始めた。
「小僧、待て! その先に行くな!」
皆の視線が一瞬レニに移り、イシュマイルが崩れるように膝を付く。
地面に打ち付ける寸前のイシュマイルを、バーツがとっさに受け止めた。
「イシュマイル! おい!」
「てめぇら離れろっ!」
それまで座り込んでいたレニが、驚くほどの勢いで立ち上がり駆け出した。
周囲にいた騎士たちはレニに突き飛ばされ一斉に構えたが、アーカンスだけはそれを身を挺して止めた。
レニは真っ直ぐイシュマイルの前に駆け寄り、片膝を付くと指で九字を切るかのような仕草を示した。イシュマイルの額に指を当て、低く呪文を唱えて術を成す。
バーツはイシュマイルの体を支えながら、慄きつつも間近に見ている。
最後にレニが指刀でイシュマイルの胸元を縦に切ると、イシュマイルは突然意識を取り戻した。バーツに抱えられたまま、放心している。
「はぁ、驚かせやがる……」
レニもその場に座り込み、両手をついてぐったりと頭を垂れる。
バーツは片膝をついた格好で、イシュマイルを支えているが、その表情は険しいものだ。
「今のは……」
バーツが常に感じている、ガーディアン共通の意識。
その近くまでイシュマイルが来たように感じたからだ。
しかし、レニは違う表現を使った。
「こいつ、渦に呑まれそうになりやがった……。信じられねぇ、タイレス族のくせに、そんなところまで行くとは――」
バーツがすかさず聞きとがめる。
「なんだ? その、渦って」
レニはバーツを一睨みすると、ふいっと横を向いてしまった。
「てめぇには言わねぇよ」
アーカンスは構えていた騎士らに武器を下ろすよう片手で合図を送る。
皆がこの様子をただ見ているしかなかった。
レニは頭を二、三振るようにして何か考えていたが、ふらりと立ち上がった。
そして何事もなかったようにその場から歩き出し、バーツはその背に言葉を投げつけた。
「待て、レニ! ドヴァン砦に行くつもりならさせねぇぞ!」
「うるせぇ……。もう、そんな気分じゃねぇよ」
レニの反応は無気力で、広い背中はうな垂れて見える。
「その小僧に術が通じねぇならレアム・レアドにはもっと通じねぇってことじゃねぇか。……やってられるか」
バーツはなおもレニを呼び止めて言う。
「なら、イシュマイルに命拾いさせてもらったな? お前」
「行き場がねぇんなら付いて来い。嫌だっつってもこの場で連行するがな!」
バーツの挑発めいた言葉にも、レニはもはや興味を失ったように呟くだけだ。
「ハ。好きにしとけよ、もうどっちでもかまわねぇや」
バーツはレニの様子を凝視していたが、アーカンスに視線を移し顎で示すように合図した。アーカンスも頷き、レニに近づく。
アーカンスが軽く声をかけただけで、レニは素直に顔を向けた。
その身は遊撃隊に預けられ、二人の騎士がレニに張り付いた。
アーカンスはそれを確認すると、残りの遊撃隊に指示を出す。再び森へ入り、残る白騎士団の救援に向かうためだ。
バーツはイシュマイルに視線を戻した。
イシュマイルはまだバーツに半身を凭れていたが、バーツはそのままにしてやっている。
イシュマイルはすでに虚脱状態からは抜けていたが、何事か考え込んでいるようだった。沈み込んだような悲しげな金色の瞳に、山の日差しがほんの少し傾いて差し込む。