十一ノ九、思い出
一方、ドロワ城内のバーツとイシュマイル。
竜馬を受け取りに行くと、本館の馬場の前でセリオが待っていた。
セリオはバーツとイシュマイルに、一晩泊まるよう提案し、バーツはこれに難色を示した。
「今はファーナムの評議員と行動を共にする気はねぇ。ファーナムまで連行されたくねぇからな」
道中を共にする羽目になったら、強制的にファーナムまで随行することになる。
勿論イシュマイル諸共だ。
セリオは首を振って不定した。
「確かに、先刻まではそのように仰っておられましたが……その心配はないでしょう。彼らはすぐにドロワ城を発ちます」
「……なに?」
セリオは説明する。
「今宵、ファーナム騎士団が山道を越えるでしょう。先ほどそれを知らせましたから、彼らはそちらと合流する心積もりで出立を急がれましょう。つまり、ガーディアン・バーツの護衛は必要ないのです」
(……わざとタイミングを計りやがったか)
バーツはセリオの顔を訝しげに睨んだが、その申し出には承諾した。
一晩をこのドロワ城内で過ごし、先に出立した第三騎士団や遊撃隊、そしてカイント評議員らとは別の目的地を目指すことになった。
バーツとイシュマイルは、別の館に竜馬ごと案内された。
ここにも花壇と噴水で彩られた庭園があり、それを望むように流麗な館が建っている。とても二人用の宿には見えない。
「ドロワの奥にこれだけ広い場所があったなんて……」
イシュマイルならずとも、そう言うだろう。
バーツが笑って言う。
「第三騎士団の連中は、今夜は山の中で野宿か。ちっとばかし気が引けるな」
バーツは口ではそう言いながら、内心では割合愉しんでいる。二人は案内されるままに、屋敷に踏み入れた。
室内はいかにもドロワ市らしく懐古的で、かつ浪漫的な雰囲気があった。
少々華美に見えるのは調度品が年代物であることと、洋式が建物の外観に合わせてクラシカルに統一されているからだろう。
この来賓用の館は、女性用に建てられたものかも知れない。
宛がわれた部屋に通されると、イシュマイルはソファに座って衣服を着替え、バーツはベッド脇のカウチに腰を下ろした。今回も同室にしたのは、用心を重ねてのことだ。
イシュマイルは、こういった豪奢な部屋を、ドヴァン砦で見たことを思い出す。
あれがライオネルの部屋の一つだったとは知らなかったが、ドヴァン砦の中というのはもう少しすっきりとしていたように思う。
イシュマイルは、この数日のことを漠然と思い返した。
そしてレアムのことにも考えを巡らせたが、思い出すのはレムではなくレニの姿だ。イシュマイルの中でレムの記憶は遠く、時折その面影すら忘れそうになる。
「……どうした」
バーツが声をかける。イシュマイルがずっと元気がないのをバーツなりに気にはしている。
しばし無言で考えていたイシュマイルが、口を開いた。
「バーツ、少しいいかな」
「……レアムのことか?」
バーツは促すように、先にその名を口にした。
「うん……」
イシュマイルはいつものように頷く。
「ずっと不思議には思ってたんだ」
イシュマイルは話しだす。昔のこと。
ノア族の村にいた頃のことを。
イシュとレムだけが皆と少し違うのは、二人が遠くから来たからだと、そうレムが話したことがある。
「レンジャーになってすぐのころ……森の外でタイレス族を見たことがある。今になってドロワの街で、そのタイレス族の中で暮らして……。レムの言った言葉がどういう意味なのか少しわかってきた」
バーツは、カウチに凭れたままイシュマイルの言葉を待って黙っている。
イシュマイルは、自分がノア族ではなくタイレス族だということを、ようやく肌で実感してきていた。
「でも。これまでたくさんの人にあって、ドヴァン砦でも帝国の人を大勢見て、それでもレムに似た人に会ったことがなかった……」
イシュマイルが、漠然と感じていた予感。
自分がタイレス族ならば、レムは何者なのか……?
イシュマイルは同じ言葉をもう一度口にする。
「ずっと不思議に思ってた。今日、あのレニって人に会うまでは」
レアム・レアドが龍人族であったということに、イシュマイルは今更ながら衝撃を受けていた。
「……知らなかったのか?」
バーツが心配そうに問うと、イシュマイルは無言で頷いた。
「レム……いやレアムには『レアムの場所』がちゃんとあったんだね、当たり前のことだけど」
イシュマイルは心のどこかで、レムが他者とは違う特別な存在だと思いたかったのかも知れない。
イシュマイルはここに来て、押し殺していた内面をバーツの前に晒した。
「僕がノア族の衣服を脱ぎたくないのは、僕の存在が人の波に消えてしまいそうだからだよ」
「……イシュマイル」
「僕がレムを追うのは、自分を探そうとしてたのかな。昔の僕を……」
イシュマイルは、自分の狭い世界が崩れていくのを感じていた。今脱いだノアの上着を、知らず手の中で握り締める。
「こうなるのが恐くて……僕は本当はレムに会いたくなかったのかも……」
イシュ、レム、サドル・ノア…イシュマイルの幼い記憶は、遠く小さい記憶の欠片になって心に刺さった。イシュマイルがもっとも怖いと感じるもの……暖かい記憶。
古い夢から醒めた時の独りで居ることの怖さ……。それは不確かなのに鮮明で、弱い心に掴みかかってくる悪夢のように、いつも、いつまでも感情を揺さぶる。
胸が痛んだ。
幼い頃、イシュはレムの後姿、眼差しを怖いを感じることがあった。それはレムがレアム・レアドという悪い人だったから、と思った時期もあった。
今は、そうでないとわかる。
それは幼子にとっての庇護者が、自分以外の何かを見ている時に感じる不安と同じもの。
レムはいつでも遥か遠いところを見ていて、自分の存在を遠ざける。さらには姿まで消してしまって、もう守る必要などないのだと、現実を突きつけられた気持ちだった。
それでもイシュマイルには、まだまだレムの存在は必要だった。自分という存在を形作る何か。その核の一つが、未だもってレムだからだ。
イシュマイルにとって、レムと、レアム・レアドは、同じ人物では有り得ない。レアム・レアドのことを、あまりにも知らなさ過ぎる。
そしてそれは恐らく、堂々巡りに陥るだけの思考だろう。