第985話 あいつがそう言ったなら
あの時、世界の穴を閉じる伊織を支えていたオルバートは魔獣に立ち向かい、穴の向こうへと飛ばされかけた。
そんな彼を自ら行動して助けたのがバルドだ。
しかし助かる算段があっての行動ではない。それは咄嗟のことであり、バルドはヨルシャミを道連れにするまいと自分からロープを離して飛ばされていった。
ヨルシャミもその後のふたりの行方をしっかりと見たわけではない。
視界が悪い中、魔獣の相手をしながら目で追い続けることは不可能だった。
しかし飛ばされた速度、方角、そして穴を閉じるのに要した時間。
それらを合わせて導き出される答えは『バルドとオルバートは穴の向こう側へ飛ばされた』しかありえない。
ヨルシャミは倒れてからも見える範囲に彼らのオーラの残滓はないかと探し、連合軍の面々にもふたりを見つけたら知らせるように頼んでいた。
連合軍の中でもイリアスはベレリヤ騎士団のメンバーを中心に指揮し、取り残された怪我人、魔獣の残党、命を散らせた者の遺体もしくは遺品を探しにミッケルバードの各地に出向いている。
その先でなにか見つかれば連絡用魔石で合図が来る手筈になっていたが――未だに報せはない。
「……なるほど、そういうことか」
「……」
ヨルシャミの話を聞き終えたサルサムは僅かに驚きを顔に出した。
静夏も覚悟はしていたというのに動揺を覗かせ、直後に気を遣わせまいと神妙な表情で覆い隠す。
――それもそうだろう、とヨルシャミは心を痛めた。
異世界の転生した先で死んだはずの夫と再会し、しかし一家が揃っていたのも僅かな間だけで、織人とは再び会うことができなくなってしまったのだ。
一人息子が死にかけている状況でそれを知るなど酷なことだった。
どう声をかけよう。
励ましも誤魔化しも宥める言葉も大した意味はないように感じられてしまう。
そうヨルシャミが考え始めた時、聞こえてきたのはサルサムのはっきりとした声だった。
「でも帰ってくるって言ったんだろ」
「ああ、風の音に阻まれていたが聞き間違えてはいない」
「あいつがそう言ったなら待てばいい。……が」
「が?」
サルサムはまるで日常会話をするように続ける。
「遅くなりそうなら無理にでも連れ帰る方法を探そう。あいつらの感覚で待たされたら俺が死ぬ」
「……は……ははは! たしかにな、私の寿命ですら怪しい」
ただ迷子になった相棒にかけるような軽い言葉と解釈だったが、今はこれが正解に近いのかもしれないとヨルシャミに思わせるには十分だった。
それは静夏も同じだったようで、緊張していた頬を緩めると深く頷く。
「私も待っているだけというのは性に合わない。……今は、自由に動き回れる足がある。この足で古今東西を駆け巡り、織人さんたちを――バルドとオルバートを連れ戻す方法を探そう」
「ああ、それがいい」
「それに……」
静夏は綺麗に晴れた夜空を見上げ、もうそこにはない世界の穴を見るように目を細めた。
「あれだけ嫌っていた自分自身を助けに行ったこと、そしてそれを受け入れたことで織人さんはやっと自分を許せたんじゃないかと、そう思うんだ」
「難儀な奴だな」
「前世の頃から直してほしかった部分だ」
そう笑うと静夏はサルサムに視線を戻す。
性格の基礎は早々変わらない。どうやっても根っこの部分は残り、時折顔を覗かせるのだ。
しかし良い方向へ転ぶことで、他でもない本人が生きるのが楽になることもあるだろう。根っこが残っていようがそんな結果を導き出せたなら、それは『変わることができた』と言っていいと静夏は思う。
きっと織人にとってはあの瞬間が変わるための転機だった。
もっと良い方法があったんじゃないか、と思う気持ちは静夏にもあるが、しかしその結果ふたりが少しでも変われたのなら、決して無意味なことではなかったと思うことができる。
そんなふたりのことを自分の目で見たい。
願うように、祈るようにそう思いながら、静夏はバルドとオルバートの顔を思い浮かべた。
そして、その時は伊織も一緒だと心に決めて。
***
――光も闇もない。
空間があると感じられるが、ただそれだけだ。
明るいか暗いかなどちっとも感じ取れず、そして感じ取ったところで意味がないと心が理解している。だからこそ伊織はパニックにならず、冷静な頭のまま流されていた。
夢の中のように様々なことが薄ぼんやりとしている。
だがそういった感覚にはもう慣れっこだ。
(……記憶は……ある。大丈夫、倒れる直前まで僕は覚えてる)
伊織は目を開こうとしたが、瞼どころか四肢すらイメージ通りに動かなかった。
音は聞こえず明暗もわからず体が動くことはなく、ただ思考だけをしている。
ここが現世だとはとてもじゃないが思えない。
(僕が夢を見てるんじゃなければ、……想像通りになったのなら、試せることは試さなきゃ)
本当に死んだのか、ただ死にかけているだけなのか。
伊織本人にはわからなかったが、これがもし魂だけの状態なのなら――戦いが終わった後に死ぬかもしれない、と察知した時から試したいことが伊織にはあった。
すべては初の試みであり、今までのようにやり方を教えてくれる人は誰もいない。
おかしなところをヨルシャミが指摘してくれることはないし、ニルヴァーレが励ましながら教えてくれることもない。
そんな中でも伊織は必死に手足を動かそうとイメージし続ける。
シェミリザに託されたことはヨルシャミたちが引き継いでくれるかもしれない。
いや、きっと引き継ぐだろう。人々の悲願と相違はないのだから。
しかし伊織は死んだからといってそこから手を引くつもりはなかった。
魂の強い自分だからこそ、死後も出来ることがあるかもしれない。可能な限り手を尽くし、今の自分だからこそ叶えられることを探したい。
そう、そのためだ。
そのために、伊織には会いたい人がいた。





