第980話 ヨルシャミの本音
伊織の血溜まりの上に鮮血を滴らせたのはヨルシャミだった。
セルジェスが駆けつける前に出来ることを、とその時に出せる最大出力の回復魔法を展開した反動である。
口と鼻から容赦なく流れ出すその血を拭いもせずに治療を続けようとするヨルシャミの肩をニルヴァーレが掴んだ。
「ヨルシャミ! 君が死んだら意味がないだろう!」
「……っお前に言われたくはないわ」
「それはそうだろうね、僕だって回復魔法を使えたら同じことをする。けど君は駄目だ。ここは堪えてくれ」
自分勝手なことをぬかすな、と睨みつけたヨルシャミの勢いはすぐに削げ落ちる。
ヨルシャミを制止するニルヴァーレは不安げな表情で歯を食い縛っていた。
――ニルヴァーレも伊織のためになにかしたいのだと、同じ想いでいることを感じ取る。しかしセルジェスを迎えに行くでもなく、無茶を止めることに全力を注いでいるのはヨルシャミより少しばかり冷静だからだ。
否、先にヨルシャミが取り乱したことでニルヴァーレは冷静にならざるをえなかったのだろう。
ヨルシャミは止血を試みながら冷えた唇を引き結ぶ。
「……そうか。私の全力の回復魔法が効かぬのなら、セルジェスたちが到着したところで同じことか」
反動のデメリットがあり多用はしないが、天才的な才能を持つヨルシャミの回復魔法はベルクエルフであるセルジェスたちを凌駕するのだ。
そんな回復魔法でも追いつかない規模の負傷である。
そして伊織には元々回復魔法が恐ろしく効きづらい。
死にそうになっている肉体でも魔力にとっては外よりも居心地が良く、シェミリザのケースより見切りをつけるのを先延ばしにしている。
そんな魔力たちが回復の効果をもたらそうと体内に入った他者の魔力を焼き殺しているわけだ。
技術がヨルシャミより上のナスカテスラなら伊織を回復させることも可能かもしれないが、彼は魔力のテイム前に前線から退いたせいで回復していない。
そして、もしその範囲内にいたとしても眼鏡が壊れているため、繊細な調整が必要な回復魔法を使うのは危険が伴うだろう。
ヨルシャミの顎を血と涙が混ざったものが流れ落ちる。
「魔力の記憶を元に再生するヒルェンナを呼ぶのは……」
「呼びに出ている間にイオリが死んでしまう」
転移魔法や転移魔石を使ったところで時間の短縮には限界があるものだ。
ここから転移魔石を持った人物――最良の選択としてヒルェンナの顔を知っているサルサムを呼び寄せ、意図を伝え、ロジクリアへと飛んでいる間に伊織は終わりを迎えるだろう。加えてヒルェンナが病院にいない可能性さえある。
彼女の名前を口にした段階でヨルシャミにも予想はついていたが、言わずにはおれなかった。
そこへセルジェスが到着する。
後ろにリータとステラリカの姿があるのは医術側からもどうにかしようと動いたからこそだが、傷を直に見たヨルシャミには外科手術でどうにかなるものには思えなかった。
しかし――ここで自分が弱気になってどうすると間髪入れずに思えたのは、仲間たちの顔を見たからこそだ。
ヨルシャミは涙を手の甲で拭い取ってセルジェスたちに現状を簡潔に報告する。
ステラリカは手持ちのカバンから大量のタオルを取り出すと地面に敷き詰め、その上へと伊織を移動させる。
出血が激しく患部の確認は困難だったが、ステラリカは震えから歯を鳴らしつつも医療用に用意してあった大きなガーゼを傷口に押し当てていく。
しかし不意にその手が止まった。
「待って、傷ついたなんてレベルじゃない……貫かれた部分の臓器が無い……こんな状態で世界の穴を閉じてたんですか、イオリさん……!?」
手の施しようがないという言葉をすんでのところで飲み込んだようにステラリカの喉が動く。
そこでニルヴァーレが勢いよく振り返った。
「ヘルベールを呼ぼう。ヒト以外のものを繋ぐことになるかもしれないが、このまま死なせるよりマシだ」
「そっ、それならイオリさんをナレッジメカニクスの施設に転移させるのはどうですか? そこでヘルベールさんと合流してもらえれば、ここでやるよりは成功する可能性が……」
「いや、この状態では転移に耐えられない」
ステラリカにそう首を横に振ったニルヴァーレは向かおうとしている先で静夏が立ち尽くしているのに気がついた。
ヨルシャミと別れた後、他の治療師に回復魔法を施してもらっていたが、伊織の危機を知り駆けつけたのだ。その表情はニルヴァーレでさえ見ていられないほどだったが、それでも膝から崩れることなく一歩前へと進む。
「……輸血が。輸血が必要なら私から採ってほしい」
静夏も相当の出血をした後であり、それはまだ回復しきっていない。
本人もわかってはいるが、申し出る以外の選択肢がないかのような鬼気迫る様子だった。
そこへリータたちの叫び声にも似た声が割り込む。
見れば伊織の体が痙攣して暴れだしていた。それを三人がかりで押さえつける様子からあまりにも色濃い死の印象を押し付けられたのか、伊織を押さえていたヨルシャミが祈るように言った。
「……イオリ、私を置いて行くな」
この場で吐くまいと思っていた本音だった。
体を押さえているはずなのに、縋りついているようにさえ見える。
伊織が舌を噛まないよう自身の腕を噛ませようとしたところで――新しい足音が近づき、その足音に涙と血で酷い有様になった顔を上げたヨルシャミは目を瞬かせる。
「アハハ、ヒドい顔だ。君のそんな姿を見る日がくるとは思わなかったヨ」
そう言いながら肩を揺らしたのは、三つ編みにしていた髪が解け、根元からもげた義手を片手にぶら下げたシァシァだった。





