第976話 世界の残痕
伊織は一針縫うごとに父親の首を絞めている気分になった。
それだけではない。命綱を切り裂くような、空気穴を塞ぐような、はしごを落とすような、地獄へ突き落すような、そんな気分だ。
すべてを同時に行なっている気さえした。
(……紛れもない僕の両手で)
前世では母を助け続けてきた手。
今世では人を救うためにあると思っていた手だった。
人工のワールドホールを開いた時点で汚く染まった手はそのままで、それでも誰かを救えるものであることを伊織は理解していた。
汚いと嫌がられたとしても命を救えるなら絶えず差し出そうと決意したが、その手でまた悪事を働いているのではないかと錯覚する。
(でも、父さんたちは帰るって言った。……僕らに使命を果たせって言った)
バルドとオルバートの最後の言葉は伊織の耳にも届いていた。
ヨルシャミに支えられるまで心に留まっているだけで一向に理解できなかった言葉だが、今ならわかる。
この言葉を無視することこそ大罪だ。そう伊織は心の中で呟く。
再び度を越えた集中により脂汗が滲み、呼吸が浅くなった。
少し前と違うことといえばもう無視など出来ないほど痛みが次から次へと湧き出してくるということだ。しかしそれは伊織の集中を乱すには至らない。
ゴールは見えている。
もう邪魔は入らない。
なにせヨルシャミが全力を注いで守ってくれているのだ。
伊織は瞬きもせずに縫い進める。
一針。
二針。
三針。
未だ溢れるヘドロをあちら側へ押し返すように四針。
もっと早く、もっと正確に。
穴の向こうに何があったとしても――ふたりの父が、苦しむ魂の模造品が、腐りゆく故郷があったとしても、それを心に留めた上で伊織は縫い付けていった。
これはすべてを理解した伊織の意思で行なっていることだ。
(世界の神に言われたからじゃない。……僕が、僕の意思でやっていることだ)
伊織はそう心に刻む。
きっとヨルシャミもそう思ってくれているだろう、と確信しながら。
そうして次の一針に取り掛かろうとした時だった。
伊織は一瞬動きを止め、乾燥した目でようやく瞬きを一回した。
そうしないとよく見えなかったわけではないが、目を疑ってみることしか出来なかったのである。
最後の一刺しの後。
その先に、縫うべき穴はなかった。
「――おわ、……った?」
気がつけばいつの間にか風は止み、満天の星空が広がっていた。
久しぶりに目にした正常な空から時間の経過を感じ取った伊織は震える息を吐き、星座ように空に輝く金の糸を見つめる。
同時に連合軍側から歓声が上がった。
シェミリザや魔獣の残党は未だ地に伏せていない。だが仇敵である世界の穴が閉じられたことはミッケルバードにいる全員の目に届いていた。
伊織は落涙しながら疲れきった腕を下ろす。
ヨルシャミとステラリカは笑みを浮かべ、そんな伊織のもとへ走ると体を支えた。
「イオリ、よくやった! あとは任せろ、この世界の傷跡が癒えるまで我々がシェミリザたちをどうにかする」
「土でシェルターを作ります、その中で休んでいてくださ……イオリさん?」
支えられながら伊織は再び片手を上げ、そのまま虚空を撫でる。
魔力のテイムだった。先ほどより小規模なのは空気中の魔力が先刻の一斉蜂起で減ったからだろう。
伊織はその魔力を自身に注ぐと塊になるよう練り直し、空の玉結びの下へ結わいつける。まるで人工的に作られた魔石のトンボ玉のようだった。
「……? イオリ、あれはなんだ?」
「バッテリーみたいなものかな」
「バッテリー……?」
「魔力で魔石の形に出力したものじゃなくて、魔力そのものに固まるように指示したんだ。ある意味ナレッジメカニクスが作ってたみたいな人工魔石かな」
伊織はゆっくりと喋りながら空で揺れる魔石を見つめる。
「僕の魔力と同じものになるように一度体を通したから、この後に僕が離れてもあの糸は残り続けると思う。世界の傷がどれくらいで癒えるかはわからないけれど、向こう五年はもつよ」
「なに……!? ならば戦を終えた後も無理に留まることはないな。しかしなんと凄まじい技術だ……この戦いの中で成長したのか」
「そしてこれ、ヨルシャミがニルヴァーレさんに渡しておいて」
ぽん、とヨルシャミの手の平に置かれたのは空にある魔石と同じものだった。
小さいがとんでもない魔力が圧縮されているとわかる。ヨルシャミは怪訝な顔をすると魔石から伊織に視線を戻した。
「どういうことだ? あやつが自由に動けるバッテリーのようなものだとしても、お前が渡すべきであろう。きっと奴も暑苦しいほど喜ぶぞ」
「ヨルシャミに頼みたいんだ。さすがに長命種並みに生きれるかはわからないけど、節約すればかなりもつはずだから」
「イオリ」
「ごめん、ヨルシャミ」
伊織はヨルシャミをぎゅっと抱き締める。
そして彼の肩越しにシェミリザを見据えた。
穴の跡を上げたシェミリザは悲しげな顔を隠そうともしていない。
それだけ余裕がないのだと、心を蹂躙されたのだとわかった。
そんな状況に追い込んだのは他でもない自分だと伊織はわかっている。
体を離した伊織に異変を感じたヨルシャミは彼を凝視しようとしたが、魔力が溢れかえっているのか眩しくて見ていられない。
「イオリ? なにを……」
「姉さんを楽にしてあげたい。行ってくるよ」
背を押すように激しい痛みが走る。
ヨルシャミが続けて問う前に、伊織は熱風を噴き上げて炎のマントを羽織るとその場から駆け出した。





