第973話 俺はお前なんだぜ?
なにをしているんだ。
そう叫びかけたオルバートの目にバルドの胴体から伸びた黒いロープが映った。
ピンと張ったロープの先端を引きながらヨルシャミが「早く戻れ!」とヘドロを斬り伏せる。
バルドはもちろんと答えたが、勢いを増した吸引力に眉根を寄せた。
直後、その表情が異なる理由で歪む。
「ッ……やっぱお前に直接触るとヤバいな!」
「あ、当たり前じゃないか、お前だってわかってただろう!?」
オルバートの記憶と共に封じられていた『失った部位を取り戻そうとする力』は仮面の破壊と共に解き放たれた。
その力を無理やり押さえつけているわけではないため、バルドに近づくたび襲っていた痛みはなくなったが、代わりに直に接触するとなにが起こるかわからないというリスクが現れたのだ。
思わず感情的な声で指摘したオルバートは手を振りほどこうとしたが、バルドは更に力を込めて細い手首を握った。
「肉体の一部としてお前に回収されるのは御免だが、ほら、触っても今すぐにってわけじゃないだろ。とりあえず戻って来いよ」
「こんなリスクの高いことを――、っ! 右下だ!」
黒い影が蠢き、バルドの足元に現れたヘドロの魔獣が足首に絡みつく。
そして万力を込めて体を絞ると足首ごと捻り折った。
歯を食い縛ったバルドはそれを踏み潰そうとしたが、その衝撃で辛うじてついていた足が地面から離れる。
ふたり分の体重がかかったヨルシャミがよろめいたが、唸り声と共に踏み止まると風の鎌でヘドロを数体同時に切り裂いた。
「ああもう、これではキリがないな! バルドよ、今からお前たちを引き寄せてステラリカの作った土の楔に括りつける! 舌を噛むでないぞ!」
「それってお前も負傷覚悟のことだろ!?」
ヨルシャミの周囲にはバルドたちのいる場所とは桁違いのヘドロたちが群がっていた。強者を一気に叩こうという魂胆なのかもしれない。
そのため先ほどからヨルシャミは後手に回り、バルドに繋いだロープも引き寄せるのではなくバルド自ら戻ってくるのを待っていた。細やかな動きをしようとすると戦闘の精彩を欠くのだ。
死角どころか四方八方から死ぬ覚悟で襲い掛かるヘドロを相手にするのはヨルシャミでも骨が折れる。
しかし纏めて倒すことは難しく、その心配がいらないほどの大技を使えば仲間を巻き込むか魔力を大量消費してしまうだろう。
この後に再びシェミリザと戦うことを考えれば良い手ではない。
しかし、ここで仲間を見捨てる気などあるものか。
ヨルシャミはそう覚悟を決めてああして口にしたが、バルドは瞬時にそれを感じ取っていた。
バルドの指摘に「後でいくらでも回復できる」とヨルシャミは口角を上げるとロープを引こうとし――その時、突然背後が騒がしくなった。
シェミリザの傍にいた出来損ないの魔獣たちは連合軍に気圧され後退していた。
それがヨルシャミたちに狙いを定めて駆けてきたのである。
その行動を指示したのはシェミリザのようだった。
「あやつめ、また言葉巧みに発破をかけたか……!」
歯ぎしりをしたヨルシャミの視線の向こうで魔獣の群れが土壁に遮られる。ステラリカの作り出したものだ。
しかし土壁の高さにも限りがあった。
何匹かの魔獣がそれを飛び越え、そして飛行が可能な者は壁を眼下に収めたまま暗い空を進んでいく。
「っヨルシャミさん、すみません!」
「いや、助かる。ステラリカは奴らに狙われぬよう防御を固めておいてくれ!」
そう指示を飛ばすヨルシャミの頭上をトンビのような魔獣が横切り、大きく旋回したかと思えば弾丸のように急降下し始める。
見れば嘴の上下が溶接されたようにくっついていた。
生存に関しては不備のある出来損ないだが――今この場においては、嘴を武器とするこの魔獣には願ってもない状態だった。
急降下した魔獣の速度はヨルシャミの反応速度を上回る。
平時なら回避できただろう。
しかし特殊な状況下ではそれは叶わず、肩から鎖骨にかけて赤い線を引いたかのように切り裂かれたヨルシャミは低く呻いた。
瞬時に回復魔法で止血だけを行ない、風の鎌で魔獣を仕留める。
――その頃には壁を飛び越えた一部の魔獣も間近まで迫っていた。
いが栗のような体にノミの両足を生やした魔獣が地を蹴る。耳に届いた音は爆音と言って差し支えない。
ヨルシャミは血の飛んだ顔を歪ませながら笑った。
「ノミか、前に会った奴よりは強そうではないか!」
肉薄せんとしている魔獣は一抱えするほどの大きさがある。
しかし不意打ちでなければなんてことはない、というようにヨルシャミのローブからまろび出た影の手が魔獣の体を捕らえた。
何重にも押さえつけられた魔獣は猫が鳴くような声を漏らす。
ヨルシャミがその脳天――と思しき部分に影の針を放つと、魔獣はノミの足を痙攣させ動かなくなった。
だが、後ろに迫った魔獣たちをすべて相手にするのはヨルシャミだけでは難しい。
ステラリカは魔獣側に近いため、先ほどのようにヨルシャミ側へ来ずに寄ってたかって狙われる可能性がある。
伊織は集中している以上は無防備にならざるをえず、バルドとオルバートは未だに復帰できていない。
瞬間的な判断を迫られたヨルシャミのもとへ地響きとそれに伴う轟音が届いた。
ついに連合軍を振りきったシェミリザが土の壁を破壊したのである。
瞬時にここへ駆けつけるほどではないが、壁までは決して遠くはない距離だった。
それ故だとわかっていてもヨルシャミは己の判断が遅れたことを恥じる。
ヘドロはまだ健在だ。今なおヨルシャミを狙って捨て身の攻撃を行なっており、魔獣の加勢によりすべてを避けきることが困難になってきた。
強かに背を叩かれたヨルシャミは咳き込みながら影の針を飛ばす。
空からは飛び交う魔獣の声が聞こえていた。
「……」
それを見つめながらロープを握る手に力を込めていたのはバルドだ。
両足が浮いてしまった後、ロープを頼りに地に足を付けようともがいていたが中々上手くいかない。右手はロープを、左手はオルバートの手を握っている形だが、オルバートを自分側に引き寄せることすらできなかった。
まるでハリケーンの中にでもいるかのようだ。
すべてを呑もうとする貪欲な世界の穴を見上げたバルドにオルバートが言う。
それは風の音で聞き取りづらかったが、バルドにははっきりと聞こえた。
「僕の手を放せ。君だけなら戻れるだろう」
「……罪の意識でそんなこと言ってんだろ」
バルドは忌々しげにオルバートを見上げ、そしてそんな感情を隅に追いやると不敵な笑みを――かつて見た養父のような笑みを浮かべた。
「でも忘れてもらっちゃ困るな。俺はお前なんだぜ?」





