第971話 人のこと言えない
父を呼ぶ声にオルバートは驚いた様子で振り返ったが、すぐに優しげな笑みを浮かべると片手を上げる。
仕事へ向かおうとする親と、それを呼び止める子供のような構図だった。
「大丈夫だよ、伊織。心配しなくてもあれだけ緩慢な動きなら僕でも足止めできる」
「そういう、っことじゃ……ないんだ。もし穴に吸い込まれたら、いくら父さんでも……っ」
ぜえぜえと苦しげな呼吸を合間に挟みながら伊織はそう訴えかける。
死ねないオルバートと、向こう側に何があるかわからない世界の穴は相性が悪い。
いっそ死んだほうがましだと思えるような事態に陥るのではないかと伊織は危惧していた。ミッケルバードで人工の世界の穴を開けた時にも出た問題だ。
しかし、それはオルバート本人も危険性をしっかりと理解しているということでもある。
「あちらになにがあるのかはわからないけれど、もしかしたら簡単に帰ってこれる可能性もあるだろう?」
「……」
「それに――世界の膿の向こうには、僕の故郷である世界がある。君たちがいなきゃ意味はないけど、こっちに帰れないならあっちを目指すのもいいかもしれないね」
「……」
冗談めかしてそう言ったオルバートは突風の中でバタバタと白衣を揺らしながら伊織を振り返った。
「だから怖がらなくていい。僕は死なないんだから」
「父さんは、……っほんっと自分勝手だ! そんなの肉体的に死んでないだけじゃないか! 僕と母さんにとっては、っ……父さんが二回も死んだようなものだってわからないのか!」
絞り出したような声で伊織は叫ぶ。
その勢いで血の滴がいくつも飛んだ。
伊織に大きな怪我はないはず、とオルバートは目を細めてよく確認しようとしたが、ここでようやく自分の上着に血がべったりと付いていることに気がついた。
オルバートにとって負傷など日常茶飯事だ。
血で服を汚すことも多く、その慣れから気にも留めていなかった。オルバートはバルドのように完全に血を回収しきれないことも多いのだ。
しかし『これは伊織のものなのではないか』という恐ろしい予想が湧いてオルバートは戸惑う。
それでも伊織は訴え続けた。
「バルドにも言われただろ!? 僕らは父さんが犠牲になって平和を得ても、……嬉しく……ない、けれど――」
しかし途端に意気消沈し、苦々しい表情で顔を歪める。
「――僕も、っ人のこと言えない。ごめん、けど父さんに無茶してほしくないんだ」
「伊織、君はまさか。……ッ!」
黒く長いものが呻き声を上げながらオルバートに向かって襲い掛かった。
真上からの一撃だ。間一髪で回避したオルバートの視線の先では、ヘドロのドラゴンの尾に当たる部分が細長く伸び上がっていた。
ドラゴンを構成するヘドロたちが攻撃範囲を広げんと寄り集まって伸びたらしい。
生き汚い奴だとオルバートは口元を歪ませながら体勢を整えたが、素早く動けない以上先ほどのような回避は早々上手くいかないだろう。
少しでも自分へ注意を引きつけながら近づいて押し留めるしかない、とオルバートは前へと進む。
鈍い音がした。
尾はいわば黒いヘドロの鞭だ。
そんな鞭で力一杯打ち据えられ、しかし倒れることなくオルバートは前へと進む。
「父さん!」
「辛いのに喋っちゃだめだ、伊織。……僕だってこの世界に帰れなくなるようなことは御免だよ。恐ろしい。けれど皆死んでしまっては意味がない。……わかるね?」
「……」
「もちろん簡単にやられる気はないさ。最後まで足掻いてみせる。――さあ、君の使命を全うしてくれ。そして心の中で少しでも応援してくれたなら、僕は頑張れる」
オルバートはそう言い残すとヘドロのドラゴンに向かって更に足を進めた。
生きて戻るつもりはある。
でなければ世界に対して償いができない。
もちろん伊織や静夏と再び離れ離れになることも恐ろしかった。ようやく家族として再び出会えたのだ。そう何度も何度も家族を手放したくはなかった。
それは伊織と同じ気持ちだ。
(まぁ、けれど……)
自分が消えることこそが世界への償いになるのではないか。
そんな気持ちもオルバートの中に芽生えていた。
生き残っても生き地獄に陥っても、どちらでもオルバートにとっては本望だと言える。それを伊織に伝えれば再び怒られるだろうか。
そう考えながらオルバートは歯を食い縛って衝撃に耐え、そして空を走る金の針が世界の穴を縫いつける様子を目にして微笑んだ。
伊織は使命を果たそうとしている。
自分はこんなにも不器用な方法でしか息子を支えられない。
そう対比し、オルバートはその凄まじい差に眩暈がしそうだった。
(なのに、伊織は人のことを言えないと言っていた。……)
きっとなにか無茶をしているのだろう。
それでも父を止めようとする伊織に対して「棚上げはよせ」と責めるつもりはオルバートにはない。
ただ、もし怪我を隠しているなら早く決着をつけて治療を受けてほしいと――そうすれば生き残れる可能性が上がるはずだと祈っていた。
何度目かわからない衝撃が体を走る。
打ち付け、貫き、鮮明な痛みが駆け抜けていく。
視線は無意識に銃を探していたが、もう世界の穴が吸い上げてしまったのか見当たらない。それでも心折れることなくオルバートは足を進め、ドラゴンの体に触れると両手を広げて押し返した。
もちろん簡単に押し返せるはずがない。
魔獣であるヘドロのドラゴンは世界の穴がこちらのものを吸い上げる影響を受けないため、緩慢な動きながら踏ん張ることもオルバートたちよりは難なく可能だった。
それどころかどろどろの体で包み込もうとしてくる。
呼吸もままならぬ中、無謀だとわかっていてもオルバートは足を止めることができなかった。
なぜなら、後ろに我が子がいるのだ。
退けるはずがない。
「伊織に、ッ近づくな!」
そう全身を使って前へと踏み込む。
体積の減ったヘドロのドラゴンが僅かに後退した。
しかしオルバートに待っていたのは激しい連撃だ。背中、脇腹、頭部を打たれ、最後に足を打たれた瞬間に関節が折れた。
その衝撃で倒れそうになったオルバートを丸々ヘドロの中へと取り込もうとドラゴンが動く。――刹那、そんなドラゴンが突如真っ二つになり、オルバートは目前に突然できた空間へと倒れ込んだ。
痛む顔を上げて視線を向けた先。
そこにいたのは、ステラリカとバルドを連れて背中からごうごうと唸る風の鎌を生やしたヨルシャミだった。





