第970話 今なら呼び止められる
ヘドロのドラゴンの強烈な一撃により、やぐらはまるで袈裟懸けに斬られたかのように斜めに砕けると倒壊した。
地震のような振動から間を置かずに落下による重力が全身を襲う。
伊織は必死になって針と糸は保持したものの、ロープは完全に消失してしまった。
ふわりと浮いた体をオルバートが抱き込む。
見れば倒壊の衝撃で両足のナイフがやぐらから抜けていた。
土埃が空気面をして舞う。
空中へ放り出された二人はやぐらの瓦礫と共に地面を転がったが、その瓦礫も軽いものから順に吸い上げられていった。
世界の穴の赤黒い空間の向こうへ消えていく瓦礫を見つめ、しばし放心していた伊織は激痛で我に返る。
(激突する瞬間に風で衝撃を和らげた、はずだけど……)
ほとんど上手くいっていなかった気がした。
それでも致命傷を負わなかったのはオルバートが下敷きになってくれたからだ、と気づくなり伊織は上半身を起こしオルバートを見下ろす。
意識が飛んでいる様子だが、それでも伊織の服を掴んで地に繋ぎ止める重石の役割りを果たしていた。
周囲を見回した伊織は目を見開く。
「……!」
少し離れた場所では共に落下したヘドロのドラゴンが無様な姿を晒していた。
ドラゴンというよりも崩れかけのなめくじに似ている。
伊織が旅を始めた頃に退治したナメクジ魔獣を思い出したのは姿形だけではない。
ヘドロのドラゴンがゆっくりと緩慢な動きで伊織たちに向かって這っていたのだ。
オルバートに声をかけようと再び視線を下ろした伊織はオルバートの腹部が赤く染まっていることに気がついて閉口する。
(父さんのじゃない)
――時間がないと予感させるものがいくつも襲ってくる。
伊織は苦しげな顔をしながら、しかし遠くで戦うヨルシャミたちのことを想って天を向いた。
もう安全のためのロープを作る余力はない。
もし作れたところで繋ぐ先はなく、アンカーまで出力するのは今の伊織には困難だった。つまり重石の役目はオルバートに任せるしかない。
ヘドロのドラゴンが追いつく前に、ここで世界の穴を閉じよう。
そう決意して針と糸を動かす。
集中することで伊織の目には世界の穴と針と糸しか映らなくなった。
周りの状況は一切わからない。
ヘドロのドラゴンが今どの辺りにいるのかも、どこまで近づかれれば相手の攻撃範囲に入るのかもわからない。
遠くでシェミリザと戦う人々の喧騒も耳には届かない。
ただひたすら世界の穴を凝視する。
この穴こそ宿敵だ。
すべての元凶だ。
――シェミリザの話は伊織にも聞こえていた。巨体を持つ彼女にはそれだけの声量がある。
元凶と呼ぶべきは世界の穴よりも伊織の故郷だろう。
そうわかっていたが、故郷である世界も死にたくて死んだわけではないはずだ。あちらにも世界の神がいたかどうかは定かではないが、兄弟姉妹であるこの世界を腐らせたいなどと思っていなかったかもしれない。
なら、この穴さえ開かなければよかったのだ。
「……」
そう伊織は針を動かし続けていたが、魔獣たちもまた楽園を求めながら苦しむために生まれたいとは思っていなかっただろう。
誰も悪くはないが、伊織たちは生きたい。
生きるために敵対するものは倒し、世界の穴は閉じなくてはならない。
しかしどうにかして故郷を助けることは、魔獣を助けることはできないかと、そんな気持ちが湧くことを止められなかった。
(ヨルシャミに甘いって叱られそうだなぁ)
叱られたいな、と心の中で続けながら伊織は穴を閉じ続ける。
魔力はまだ余裕があった。
使っている間も自然と回復した分がある他、テイムした魔力の一部が僅かながら伊織の中にも入り込んでいたのだ。
(最後の仕上げでまた魔力たちの力を借りることになる。けどテイムが永続かはわからないから、出来る限り自前の魔力も温存しておかないといけない)
自分へそう言い聞かせながら伊織は浅い呼吸を何度も重ねた。
しかし無事に穴を閉じ終えても、その段階で魔力に余裕があるならシェミリザとの戦闘に参加したいという気持ちもある。
そうすればきっと怪我を負う人も死ぬ人も減るだろうという予想からだ。
(シェミリザ……姉さん)
彼女はもはや殺すことでしか鎮められないだろう。
救うすべが見つけられない。
伊織は未だにそうやってシェミリザを想う。自分を殺そうとした相手だとしても、姉として慕った日々に見た姿が忘れられなかった。
考えている間も針は動き続けている。
何百回、数千回と繰り返してきたその動作に当初の固さはなく、針を刺せば滞りなく進み、糸を引けばそれは切れずに穴の両端を引き合わせると伊織はすでに確信していた。
あとはどれだけそれを続けていられるか。
そう考えたところでオルバートの意識が戻ったのか、体の下から呻き声がした。
「伊織、……っそうか、やぐらが限界を迎えたか」
そう伊織を抱えたまま起き上がったオルバートは、自分たちに近づくヘドロのドラゴンに気がつくと眉根を寄せた。
再び銃で少しでも削るしかない、と腕の先を見る。
だがそこに銃はなかった。落下の衝撃で紛失したらしい。
オルバートは口元を歪ませるとリュックを伊織の片肩に掛け、中からいくつかの破片を掴み取ると白衣のポケットへと突っ込んだ。
「少し軽くなったけど役目は果たすはずだ。腕を動かしにくい時は足に引っ掛ける形にするといい。……頑張るんだよ、時間は僕が稼ぐ」
そう言ってオルバートはヘドロのドラゴンへ向かっていこうとする。
多少の重石では吸い上げる力に抗えないのか、傍目から見ても無謀だと思えるほど足元がおぼつかない。
世界の穴がこちら側のものを吸い上げる力は一定ではないため、不意打ちで強まった瞬間に地から足が離れればそれまでだろう。
伊織は口を開きかけ、しかし声を出すことができずに歯を食い縛る。
呼吸をすることでいっぱいいっぱいだった。
その間もオルバートの背が遠ざかることに焦燥感が増す。
呼吸することができるなら声も出せるだろう。
声帯を震わせればいい。
自分の声はよく覚えている。
幼い頃は呼び止められなかったが、今ならなんとかできるかもしれない。
だから短い間だけでもいいから声を。
言葉を発するんだと伊織は手を休めぬまま息を大きく吸い込み――
「……っ父さん!」
――オルバートの背中を見つめながら彼を呼んだ。





