第967話 ヘドロの産声
血沸き肉躍る勢いで攻勢に転じた連合軍に気圧されなかったのはシェミリザだけだった。
出来損ないの魔獣たちは押し返され、しかし伊織のいる方角へ行けば再び雷に打たれると知っているのか引くに引けず、左右へと分散するように不格好な逃げ方をしている。
もはや初めの勢いはなく、人々の反撃に耐えているだけだ。
勇猛な個体は先に死に、今は戦闘に不向きな者ばかりだった。
『しょうがない子ね、自分で戦えないならこちらへ来なさい』
そうシェミリザが竜巻を起して魔獣たちを巻き上げ、影の翼を触手のように伸ばして空中で絡め取る。
それでもシェミリザの強化や回復が追いつかないほど連合軍は勢いづいていた。
先ほどまでとは逆だ。しかしそれは連合軍の勢いもまた有限ということでもある。
『イオリが魔力をテイムした……けれどすべての魔力じゃないんでしょう?』
「ならばそれが尽きるまで削ろうというのか?」
シェミリザの死角から飛び出したのは静夏だった。
抉れた腕の肉は戻ってはいない。
一度止血のために傷口を癒してしまったからだろう。しかし腕が完全に動かないわけではなく、多数の筋肉が補助をするように盛り上がり、凄まじいパンチを繰り出した。
腹部を殴り飛ばされたシェミリザは血を吐き捨てる。
わざわざダメージの残る腕で殴ったのは、そんなハンデがあっても相手を出来るという宣戦布告だ。
静夏は量の不足を血の巡る速度を上げて補うべく心臓を唸らせ、心拍数を高めながら一歩一歩シェミリザへと近寄っていく。
「私たちはひとりひとりがお前のようにしぶとく食らいつくだろう」
『……』
「そんな我々を削りきることを……お前は成すことができるのか、シェミリザよ」
『――成さなきゃならないのよ』
シェミリザは小さくそう言うと影の針を作り出した。
その数は今までで最大の凶悪さを誇り、この場にいるひとりひとりに行き渡ると思わせるほどのものだ。
そんな影の針を携えたまま、ちらりと視線を走らせる。
目を向けた先で世界の穴はどんどん小さくなっていた。伊織のせいだ。
やはり人工のワールドホールを開かせた直後に殺しておくべきだったのだ。危険分子の筆頭になるという予感は当たっていたのに、とシェミリザは唇を噛む。
それはつまり、伊織はこの世界の救世主に他ならないということだ。
『あれだけなりたがっていたものになれて良かったわね、イオリ。けれどわたしも引けないの』
シェミリザは世界の大禍になるべく空に向かって大きく口を開く。
そしてどうしようもない愚鈍な指揮者を一喝するように言った。
『さあ、あなた達の楽園はこっちにあるわ! 不完全な体でもそちらよりはまともでしょう、こちらへ来なさいな!』
「……!」
穴の向こうから人間の目が見下ろしている。
びっしりと並んだその目たちにリータは喉を鳴らした。
どれも眼球はあるが瞼がない。それどころか肉体もヘドロのようで見ていられなかった。
魔獣は懐かしい故郷に似た大地を見るため、痛みのない楽園を見るため、次なる住処を見るために目から生成されるのだろう。
知識のない者にもそれを察させる光景だった。
粘着質な音を響かせて大量の魔獣の出来損ないが世界の穴から溢れ出る。
その産声は様々な声が入り混じり不協和音のようだ。
やはりまるで泥に沢山の目を付けたような有り様で、ウサウミウシやネコウモリよりもよほどスライムのような様子に見える。
悪臭はしないがそれが逆に不気味だった。
しかし問題はその魔獣の量だ。
ほとんど液状化している影響か、穴が小さくても次から次へと流れ出てくる。
それは治らない傷跡から次から次へと湧いてくる膿のようだった。
***
「ッ……!」
伊織は崩れかけた体勢を戻し、激痛に眉根を寄せながら脂汗を滲ませる。
世界の穴が地上のものを吸い上げる力が一気に増した。それもこれもヘドロのような魔獣の群れの影響だ。
足そのものをやぐらの床に固定する案が浮かんだが、すでにこれ以上同時に出力するのは危険な状態だった。ロープも常に強化し続けているのだ。
幸いにも今なお溢れ出る魔獣が固形ではないおかげか縫い進めるのに影響はない。
ならこのまま最後まで閉じきる、と伊織は鉄の味が広がる口を閉じて針を動かした。
そこで初めて金色の糸がぶちりと千切れ――伊織は全身を総毛立たせながらそれを間一髪で繋ぎ直した。魔力にはまだ余力があるが集中力が続かなくなっている。
大丈夫。
大丈夫だ。
自分はひとりじゃない。
そう先ほど耳に届いた鼓舞の声を頭の中で繰り返しながら、伊織は浅い息を繰り返して糸を繋ぎ止め続けた。このまま再び動かしていいのかどうかの判断がつかない。
乱れそうになる心を鎮められるのは自分だけ。
そう自分に言い聞かせて呼吸を整えるが、血の味が増すばかりで落ち着くことができなかった。そんな時だ。
やぐらの上へなにかが降ってきた。
魔獣か、それともシェミリザの召喚獣か。
今ここで襲われれば耐えられるかわからない。
撃退出来ても集中しきれず世界の穴に吸い上げられてしまうかもしれない。
――そうゾッとしたのは初めの数秒だけで、すぐに震えは止まった。
「っ……さすがのコントロールだ、けど頭から落ちたのは想定外だな」
伊織はそちらへ視線を移す。
やぐらの端でゆっくりと立ち上がったのは、伊織に笑みを向けたオルバートだった。





