第965話 原初の救世主
伊織がなにかに失敗した。
一度、二度、三度。繰り返していた撫でる動きを中断しては再開している。
遠目に見ていたヨルシャミはそれだけを把握し、一体なにを試しているのだと目を細めて凝視したが、あまりにも離れすぎており細部まではわからない。
しかし伊織の次の行動はヨルシャミにもよく見えた。
「あれは――我が愛杖、イデアスクワィア?」
イデアスクワィア。
その昔ヨルシャミが愛用していた杖だ。
緑と青のグラデーションが美しい石が嵌まっており、長さは元のヨルシャミの身長に合わせているため伊織には大分大きい。
ヨルシャミが己のセンスでイデアスクワィアと名付けたその杖は魔力の安定を目的に作られていた。
あの石もニルヴァーレを彷彿とさせるため当時から良い印象はなかったが、魔力安定に一役買う代物だったため致し方なく採用したものだ。
イデアスクワィアは約千年前にヨルシャミがナレッジメカニクスに捕まった際に回収され、以来行方知れずになっている。
それをどうして伊織が、と思ったところでヨルシャミはハッとした。
「まさか出力したのか? 魔力安定用の杖を魔力で? ……なんという発想を……」
伊織はイデアスクワィアを一度目にしている。
ヨルシャミと伊織が初めて出会った夢路魔法の世界で契約の際に用いたのだ。
あの時はヨルシャミにも余裕がなく、少しでも魔力を安定させようとプラシーボ効果を狙って使い慣れた杖をわざわざ再現し、契約の補助に使用した。
以降は目にすることはなかっただろうが、それだけ印象的だったのかもしれない。
ヨルシャミは目を凝らす。
(そしてイオリには杖や装飾品で魔力を安定させる情報も知る機会があった。……)
それをわざわざ作り出したということは、一度失敗した試みをまだ続けようというのだ。
そして――その試みは普段イメージ出力式魔法を使う時よりも強い集中力と安定性が必要になるのだろう。
伊織はイデアスクワィアを握り締めて再び片手を伸ばす。
この時だけは穴を閉じることを保留にしていた。
ヨルシャミは目を瞠る。――ちょうど今、同じ光景を見たシェミリザとそっくりな表情で。
伊織が撫でたのは空気中に漂う魔力そのものだった。
魔力とは生物である。
ヨルシャミは己の持論を思い返す。
命のない無機物でないならば伊織のテイムの対象となる。しかしそれにはもうひとつ条件があったはずだ。
すなわち『召喚された存在であること』である。
(――そうだ。魔力はいつからこの世界にあった? 兄弟姉妹世界、イオリの故郷に魔力はないようだった。しかしここには存在している)
ヨルシャミは目を見開いた。
「世界の神が招き入れた……召喚した、のか?」
世界は防衛のために長命種を含む多種多様な種族を生み出し、筋肉の神を派遣し、転移者を呼び、ヨルシャミたちのような突発的な天才を多く作り、最後に転生者に辿り着いた。
しかしそれよりも前の段階に防衛の一環として行なっていたことがあったのだ。
それが魔法という強い抵抗力を得るために必要な魔力を呼ぶことである。
「なんてことだ、では魔力は――この世界の原初の救世主だったのか!」
当時は魔法が存在しない、つまり存在を知らないはずの世界の神が意図したことかはわからないが、しかし確実に魔力は他の場所から呼ばれたものだ。
なぜなら伊織がテイムを成功させたのである。
それは連鎖でもしたのか伊織が触れた部分の魔力だけに留まらず、半径十数メートルに及ぶ魔力が伊織に従った。
全てでなくても十分だ、と伊織は指揮者のように腕を振ると連合軍の戦っている方角を指す。
命令に言葉など必要ないのか、やはり口元は動いていない。
他にも気にするべきところがあるはずだというのに、未だに声が聞けないのだとヨルシャミは一瞬の間だけ気落ちした。
連合軍から驚きの声が上がる。
ようやく伊織から視線を外したヨルシャミがそちらを見遣ると、生き残っていた兵士たちがモスターシェばりのムキムキ兵士に変貌していた。
ヨルシャミはほんの少し眉根を寄せると目を擦ったが、魔導師までムキムキになっているのを見て「そこはミスチョイスだろう……」と小さく呟く。
その時、兵士たちのざわめきがヨルシャミたちの耳にもはっきりと届いた。
「これはインナーマッシヴ様の――いや、もうひとりのマッシヴ様の加護だ!」
「負けることなんて考えられないくらい力が湧いてくる……!」
「枯渇していた魔力も回復しているぞ!?」
「体験したことのない強力な強化魔法! さすがもうひとりのマッシヴ様!!」
筋力増強にも向き不向きがあるのか全員がムキムキになっているわけではなかったが、それでも魔力回復や見た目に影響しない程度の身体強化、そして驚くべきことに治癒まで行なわれている。
伊織が最も不得手としていた回復魔法だ。
「魔力をテイムし、直接命ずることで複雑な指示が可能になった、のか……ははは、規格外すぎて予想しかできぬわ」
「ぼ、僕には予想すらできないんですが」
セルジェスも自身の魔力が回復していることに気がついたのか目をぱちくりさせている。
幸いと言うべきかなんと言うべきか、セルジェスの筋力に変化はない様子だった。
そこへ空中を跳んできたニルヴァーレが駆けつける。
「やあ、さっきぶり! ヨルシャミも回復したね? 見たところイオリが魔力をテイムしたんだろうか、不思議な事態だが今こそ好機だ。シェミリザを叩きに行くよ!」
「まずその妙な輝きをどうにかしろッ!」
ヨルシャミの真ん前に降り立ったニルヴァーレは物理的にきらきらと光っていた。
本人が発光しているわけではなく、目に見えるきらきらした『なにか』に纏わりつかれているように見える。
ニルヴァーレは「あぁ、僕の体がイオリの魔力で出来てるから、魔力が好意を示してるみたいだ。後輩が先輩に挨拶してる的な?」と胡乱な答えを返した。
「でもとっても綺麗で美しくてテンションが上がらないか? 心の疲れも吹っ飛ぶってものだよ!」
「……良い効果はもたらしているようだが……」
なんともいえない顔をしているヨルシャミの腕を引き、ニルヴァーレはセルジェスにウインクする。
「テイムされた魔力は消費されるからね、この恩恵も一時的だろうさ。この後も治療は任せたよ!」
「わ、わかり……ました」
「さーあ、ヨルシャミ! みんなへ一気に発破を掛けてシェミリザへ突撃だ!」
発破を?
そうヨルシャミが問うとニルヴァーレは口角を上げて頷いた。
「さっき僕がやってたろう? 今、このタイミングで口にすることで最も士気を上げられる言葉を戦場に行き渡らせるのさ!」





