第964話 エゴの悪足掻き
現状、世界の穴にとってシェミリザを強化することこそ最善の手である影響か、ほとんどの魔獣は彼女と同化することを自ら望んで行動していた。
しかし中には抵抗する魔獣もおり、掴もうとしたシェミリザの指の間をすり抜けていく。
よほど自分で世界を侵したいのだろう。
無情にもそんな魔獣すら鷲掴んだシェミリザは傷を癒しながら天を仰ぎ見た。
『まだ膿は山ほどあるでしょう? すべて出しきりなさい、わたしが受け止めてあげるわ』
鼓舞するように、催促するように。
シェミリザは小さくなってしまった世界の穴へと囁きかける。
穴そのものに自我はない。
あれは世界の膿に生じた桁もわからないほど数多の命もどきが苦しんで楽園への出口を求めた結果だ。不死鳥のような例外はいるが、ほとんどの魔獣にとってはただの脱出口である。
今やシェミリザもその一端だ。
だからこそ、魔獣の意識がある程度は反映されることを知っていた。
たったひとり分の意志では成せないが、何百もの魔獣を取り込んできたシェミリザはすでにひとりとは言い難い。
(早くこの虫たちを払い除けられる力を頂戴)
でないと今頃になって新しい道を見つけてしまう。
でないと持ちたくもない希望を伊織に見出してしまう。
でないと今更になって差し伸べられた救いの手に縋ってしまう。
期待はシェミリザを裏切る。
希望はシェミリザを裏切る。
未来はシェミリザを裏切る。
そんなものに再び手を伸ばしたくなる衝動をシェミリザは憎悪した。
ここですべてを諦めて自分だけ死ねば、いつか人類も世界の神も思い知るのだろうか。そう考えながらシェミリザは影の翼を地面に突き刺し、壁の代わりにして連合軍たちの行く手を阻む。
そうして作り出した僅かな隙に――雪崩のように押し寄せる魔獣の出来損ないたちを両腕で受け止めた。
それはまるで駆け寄る幼子を抱きとめる母のようだった。
あの時に死んでおけば良かったと思い知る人類たちを想像する。嘆く世界の神を想像する。それらの想像はエゴで出来ている。
希望があったとして、ほんの僅かでもあの未来に辿り着く可能性が残っているならシェミリザはやはりここで決着をつけることを選ぶだろう。
それは。
(怖いからよ。……ええ、怖いから)
裏切られる恐怖も、未来への恐怖もシェミリザはもう御免だった。
早く終わらせてしまいたい、その一心で身体を作り替える。
なまじ才能があり様々なことを実現できはしたが、シェミリザも精神はヒトだ。
ただのひとりのエルフノワールである。
もう恐怖はしたくなかった。
――早く終わって。
そう祈りながら、怖がりながら緑色の瞳を抵抗する人々に向ける。
シェミリザの頭には黒い角が二本生えていた。
山羊のような角はスパーク音をさせるや否や黒い雷を地面へと走らせる。
感電した人々が叫びも上げられず昏倒していき、中には自ら舌を噛んでも口を開けない者もいた。
そうしている間にシェミリザの腰の両側に装飾品のように下がっていた巨大な眼球がぱちりと開き、やっと一対の目として使命を果たし始める。
巨大な眼球は人々の予備動作から次の行動を予測し、シェミリザは攻撃されるより先に回避した。
それはもはや予知であり、連合軍は同時攻撃すらシェミリザに巧みに避けられるようになり焦りを覗かせる。
もう一撃、と放った雷が空中で異なる雷により相殺した。
見れば伊織がほんの一瞬だけ穴を縫う手を止め、雷を放っているのが目に入る。
『こっちを見もせずに相殺させるなんて、随分と成長したのね?』
そう笑うシェミリザに反応せず、伊織は再びすいすいと針を動かし始める。
穴はもう人工の穴よりも小さくなっていた。
『……』
シェミリザは暗い目をしてそれを見つめ、そして腕の形になっていた紫の炎を手の平に集めると魔法の炎を混ぜ込んで大きく育てる。
『悪足掻きするしかないわね』
どれだけ強化されようが、その力が有限であることをシェミリザは知っていた。
一度は一対一でも引き止められるほど追い詰められたのだから。
本来は魔獣の特性である紫の炎と魔法の炎を混ぜることは至難の業だ。
それを短時間で行ない、しかし余波を受けて鼻血をぱたりと零しながらシェミリザはあっという間に膨れ上がった紫の炎を地面に叩きつける。
辺りは一瞬で業火に焼かれる地獄のように変貌した。
各々が出来る限りの方法で炎を防いでいるが、それも長くはもたないだろう。
シェミリザは影の翼を羽ばたかせ、世界の穴を閉じる針を目指して飛び上がった。
伊織を直接殺したと思ったのに何故か生き残っていた。
なら今度はこちらを直接叩こうと考えたのだ。
しかしそんなシェミリザの前へ何者かが割り込み、ざらついた尾鰭で叩き落とす。
シェミリザは目を丸くした。
『立派に育ったわね……イオリが召喚したの?』
ラタナアラートのラビリンスで伊織に上書きテイムされた数種類のサメを掛け合わせたような召喚獣である。
元はといえばシェミリザが召喚した者だ。
しかし今は伊織の魔力を譲渡されたのか、シェミリザに対抗できるほど大きくなっている。
そもそもこの召喚獣は懐いていても伊織が手順通りに召喚したことはほとんどない。なにせ手懐けたラビリンス内で伊織は洗脳されたのだ。
そして洗脳により繋がりが封じられ、あのリーヴァですら長い間表に出てこられなかった。
それ故にサメも日の目を見なかったのだが――今は魔力を得て溌剌としている。
世界の穴を閉じながらこれだけ魔力を消費しても余力があるなど恐ろしい。
シェミリザは喉の奥で小さく唸りながらサメの体当たりを両腕で受けた。
しかし炎のジェットで射出されたと表現して差し支えのないサメの体当たりだ。受けた腕がみしりと軋み、防ぎきれなかった衝撃が体を貫く。
それを見計らったように再び雷がシェミリザに襲いかかる。
重いインパクトは静夏の一撃に似ていた。
それは伊織もまたマッシヴ様であることを指している。
シェミリザは口から黒い煙を吐き出しながら墜落し、しかし地面に激突する直前に大きく羽ばたいて着陸した。
虚な目でやぐらの上を、伊織を見遣る。
シェミリザの強化はその目にも及んでいた。この世界の誰よりも魔力を、オーラを、魂を見ることに優れていると自負できるほどに。
そんな目にあるものが映る。
『イオリ、……あなた、もしかして』
なんてしぶとくも強かな子だろう。
そう目を見開くシェミリザの前で伊織は片腕を異なる方向へ伸ばした。
両手で行なっていた穴を縫い付ける動きを右手だけで受け継ぎ、自由になった左手は虚空を滑る。
なにもないところを撫でている。
ただのヒトにはそう見えるはずだ。
しかしシェミリザの目には――伊織がなにをしようとしているのか直感でわかるほど、それがありありと見えていた。





