第963話 恨みと信頼 【★】
「いや、いやいや、お前こそ穴に近づかない方がいい人間の代表格であろうが」
しばし固まっていたヨルシャミが冷静にそう言うと、オルバートは平たくなったカバンを振ってから白衣を捲って見せた。
元は爆弾などをしまってあった白衣の裏側にはもうなにもない。
「爆弾や地雷が底をついてね。銃はあるが、それだけでシェミリザに与えられるダメージはたかが知れている」
特に僕はセトラスやサルサムのように急所を見極めて撃てないから、とオルバートは肩を竦める。
「だから役割りを譲ってくれ、ヨルシャミ」
「……」
「それに、だ。万一治療が必要だとして、伊織には回復魔法が効きにくいから適しているのは医療技術だと思わないかい」
いつになく真剣な顔だった。
オルバートは記憶を取り戻してからもオルバートとして存在していたが、その中にはたしかに藤石織人が――伊織の父親という存在がある。
今も父親として自分にできることを探しているのだろう。
ヨルシャミとしてはこれは自分の役目だと言ってやりたかった。
譲れるものではないし、検討することすらできないと。
しかし、しばらく焦げ茶色の瞳を見つめた後に口を開いた彼は吐息と共に言った。
「……断ったところで突撃しそうだな。私にも覚えがある」
「似た者同士だね」
「気味の悪いことを言うな。……悩んでいる時間が無駄だな、わかったから早くイオリのところへ行ってやれ」
目を瞬かせたオルバートは「ありがとう」とヨルシャミの片手を握った。
ヨルシャミはその手を見下ろしながら言う。
「だが気をつけろ、やぐらへ着くまでに魔獣がいる。お前はあやつらをスルーする手立てがないだろう。穴にも吸い込まれないようにしろ」
「死なないことだけが取り柄だからね、食われながら進むさ」
「酷い作戦だな! そこまで捨て身ならリオニャにやぐら近くまで投げてもらえ」
無謀さを示すためにヨルシャミはそう無茶を言ったが、オルバートが名案だとばかりに頷いたのを見て眉間を押さえた。
しかし魔獣に突っ込んで死ななかったとしても、そのまま行動不能になってしまう可能性もある。押さえ込まれるなり胃に収められるなりすればオルバートひとりでは脱出不可能だろう。
セルジェスにも意見を聞こうか。
そう視線を移したヨルシャミは彼が苦々しい顔をしていることに気がついて軽率だったと己を戒めた。
オルバートは今は味方をしているとはいえ、長い月日の中で犯した罪により様々な人々の恨みを買っている。
セルジェスもその中のひとりであり、彼にとってオルバートは父を惑わせて大罪を負わせ、妹の死の原因を作った要因だった。
もちろん、セルジェスは事のあらましを理解している。
しかし実際に近距離でオルバートと接する機会は避けてきた。どうしても折り合いの付かない感情はあるものだ。
ヨルシャミがフォローを入れようとしたその時、先に口を開いたのはオルバートだった。
「君がセラアニスの兄だね」
「……ええ」
「君の抱く感情は僕が、僕らが受け止めるべきものだ。――すべてが終わったら聞かせてくれるだろうか」
「そんな安請け合いしないでくださいよ」
セルジェスは翳りのある目でオルバートを睨みつけた後、頭を軽く振るとヨルシャミの手を引いた。
「行きましょう。……これは僕が、僕の力で乗り越えるべきことです。あなたの手は借りません」
「乗り越えるべきこと?」
「あなたには致し方ない理由があった。それを聞いてから納得し、責めまいと考えていたんです。他のナレッジメカニクスの人に対してはそれができていたけれど、ボロが出てしまいました」
それが今です、とセルジェスは極力感情を抑えた声音で言う。
オルバートは逡巡する。ここで謝っても礼を言ってもいけない気がした。
しかし時間は待ってくれない。オルバートは静かに「わかった」と頷くと連絡用魔石を弄り、セルジェスたちに背を向けた。
「――無理に聞くのはやめておく。今は君がどんな気持ちで、どういう風に過ごしているか、それを自分で考えて心に留めるよ」
セルジェスは返事をしない。
しかし否定もしない。
オルバートは連絡用魔石に返事があったのを確かめ、裾のすり切れた白衣をはためかせて走り去った。
ヨルシャミは無言でそれを見送りつつ眉根を寄せる。
(止めるタイミングを失ってしまったが……もしやあやつ、本当に投げ飛ばして接近する方法を実行する気か……?)
誰か止めるか再考することを祈るしかないか、とヨルシャミは眉間を押さえながらセルジェスを見た。
彼はまだ険しい表情をしている。
「セルジェスよ、配慮が足らなくてすまなかったな」
「いいえ、僕こそ戦場でこんな感情を出すべきじゃありませんでした。――難しいですね、外の人間と関わるのは」
「あれは最高難度だ、そう気にするな」
ヨルシャミの言葉にセルジェスは表情を緩め、そして静夏の蹴りを受け止めるシェミリザを遠巻きに見つめる。あれこそが本当に恨むべき相手だというように。
そんなシェミリザの向こう側にやぐらが見え、セルジェスは不意に浮かんだ疑問を口にした。
「そういえば、イオリさんに魔石での連絡は……?」
「それがニルヴァーレに運ばれている間に試したが返信がないのだ。こちらからの連絡は伝わっているとは思うが……」
連絡用魔石は届いた電気信号の刺激を感じ取れれば受信した時点で強制的に内容を知ることになる。そのため手を離せなくても理解しはているはずだ。
それでも不安げなヨルシャミにセルジェスは言う。
「あの人が行くって言ってるんですから大丈夫ですよ」
あの人、とはオルバートのことだ。
――恨みはあるが信頼はしている。
そう感じ取ったヨルシャミは頬を掻きながら「そうだな」と小さく笑った。
伊織とオルバート(絵:縁代まと)
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