第962話 僕は反対です
ヨルシャミが体を動かせるようになったのはヘルベールからセルジェスへと預けられてしばらく経ってからだ。
完全回復には至っていないのか体の各所に鈍痛が残り、長い間水の中にいた時のように重力を全身に感じる。疲労も抜けきっていない。
しかし確実に良くなった、と礼を言おうとヨルシャミがセルジェスを見ると、彼は心底不安げな顔をしていた。
今まで戦場で見せていた表情とは僅かに種類が違う。
(……ああ、妹と重ねて見たか)
千年前に理不尽に殺されたセラアニス。
彼女は表向きは死んだことにされていたため、兄であるセルジェスも当時は『死んだ妹』の姿を目にしたのだろう。実際には仮死状態だったが、そんな知識のない者から見れば完全に遺体だ。
そしてセラアニスはラタナアラートで短い時間ながらセルジェスと再会し、再び眠るように夢路魔法の世界へと戻っていった。その姿も千年前に見たものと相違なかったかもしれない。
ヨルシャミの肉体はそんなセラアニスのものを使っている。
傷つき、倒れた姿はセルジェスのトラウマを刺激するのに十分だったのだ。
しかしセルジェスはヨルシャミの様子から自身の表情を察すると、頭を振って仕切り直してから状況説明をした。
ヨルシャミも敢えて深くは聞かずに頷く。
「そうか、魔力もあと僅かか。ならば敢えて完全回復させないのは良い手だ」
「底をついても時間経過で自然回復すればひとりやふたりは救えるので、後方へ下がりはしますが退却はしない予定です。回復魔法を使えなくても応急手当くらいはできますからね」
ただ、とセルジェスは眉を下げた。
なんでも意識が朦朧とした兵士たちは母国語で喋ることが多く、上手く負傷部位を特定できないことがあるという。
ベレリヤやその友好国は共通言語があるが、最近まで国交のなかったレプターラは言語が異なる。
それでもこの数年で互いの言葉を学び、戦場に差し障りのないスムーズな意思疎通が可能になっていた。もちろん一般の国民にはまだ行き渡っていないが国防に関わる者は別だ。
一方、セルジェスたちベルクエルフは更に付け焼刃である。
なにせ彼らはまず里の外を知り、ベレリヤという国そのものを学ぶ段階だった。
そこへミッケルバードで行なわれる作戦に参加するからと短期集中で言葉を学んだのである。共に戦をするならある程度の意思疎通は必須となるのだから。
治療においてもそれは同様で、自前の技術による応急処置だろうが回復魔法だろうが意思疎通は重要になってくる。
「回復魔法も使い手によっては患部を断定せねば使えぬからな……」
ヨルシャミは頷いた。
負傷を全自動で感知し癒す回復魔法や治癒させる位置をしっかり絞って癒す回復魔法など、元となる魔法は同じでも異なる使い方をすることがある。
これは使用する魔導師の練度の差や相性による差だ。
ナスカテスラのように医学を用いて目に見えない患部まで見抜いてピンポイントに癒す技術もある。
この中でもヒアリングを必要とするタイプの魔導師にとって意思疎通の困難さは大きな壁だろう。
「ヒアリングできずとも他の魔法を併用し見抜け……と言うのはさすがに暴論か」
「ははは……そういう芸当ができる人ばかりじゃないですからね」
情けない限りです、とセルジェスは頭を下げた。
「でもなんとかしてみます。これが僕らの戦いなので」
「……外に出て強くなったではないか。セラアニスも喜ぶだろう」
そんなヨルシャミの言葉にセルジェスは嬉しそうに笑い、そのままヨルシャミの腕を引く。
「ヨルシャミさんも魔力回復まで僕らと一緒にいましょう」
「いや。倒れている時から回復に勤しんでいた故、多少はやれる。私はもう一度イオリの様子を見に行くつもりだ」
ヨルシャミは随分と遠くなってしまったやぐらを見て言った。
ぎょっとしたのはセルジェスだ。掴んだ腕を離さず首を横に振る。
「どういう理由かはわかりませんが僕は反対です」
「危険ということは重々承知だ、今度は魔獣を無視して行――」
「それだけじゃないんですよ」
よく見てください、とセルジェスはやぐら周辺を指した。
「周囲が根こそぎ奪われた後でわかりにくいですが、穴が地上のものを吸い込んでます。魔獣を無視したとしてもイオリさんのもとまで行くのは危険ですよ」
「……先ほどはそれに気づかぬほと集中を欠いて突撃してしまったということか」
世界の穴は不完全な魔獣を大量に生んだ際に再び吸い上げる力を強めていた。
初回よりは緩やかとはいえ、やぐら上の伊織も手すりに体を繋げていなければ体勢を崩していただろう。――それがようやく、セルジェスの言葉で落ち着いたヨルシャミの目にも見えた。
ヨルシャミは恥じ入りつつも眉根を寄せる。
「しかし傍まで行かねばならぬのだ。……どうも胸騒ぎがする」
「胸騒ぎ?」
セルジェスはもう一度やぐらを、やぐらの上の伊織をじっと見た。
シェミリザと連合軍の死闘が繰り広げられているものの、伊織の受け持つ作業自体は順調に進んでいるようにセルジェスには見える。しかしヨルシャミは落ち着かない様子だった。
疑問を視線に含ませつつもセルジェスはヨルシャミに目をやる。
「それでも駄目です。せめて三十分……いや、一時間は休まないと」
「だが……」
「ならその役目、僕に譲ってくれないか」
落ち着いた声がヨルシャミとセルジェスの間に入り込む。
ヨルシャミが声の主に視線をやると、そこに立っていたのは――白衣をぼろぼろにしたオルバートだった。





