第960話 士気を下げず鼓舞をせよ!
シェミリザは大地を薙ぐ。
セトラスの時のように『ひとりずつ確実に潰そう』と試みることすら出来ないほど休みなく四方八方から狙われる、それが煩わしいというように眉根を寄せていた。
しかし一時的ながらシェミリザの疲弊は新たな魔獣を取り込んだことにより回復し、一方で連合軍は削られ続けている。
シェミリザのひと薙ぎを避けきれなかったニーヴェオが宙を舞い、落下した衝撃でヘルベールが地面に投げ出された。ニーヴェオは死んではいないものの気絶しているようだ、と確認したヘルベールは口を引き結ぶ。
魔法を使えず戦闘も苦手としているヘルベールの機動力が失われたわけである。
一般人よりは動けるがここにいる精鋭たちには劣り、その精鋭たちはシェミリザに追いつくのでやっとだ。
(カメたちも防御のサポートに当たらせているが……大分減ったな)
多数が戦闘不能に追い込まれ、見える範囲には三頭しかいない。防御面は優秀だが地上では機動力がないため致し方ないとはいえ焼け石に水だった。
次にどう動くべきか。
そうヘルベールがほんの僅かな間だけ逡巡していると、そんな隙を突くようにシェミリザの黒い火球が追い打ちをかける。
黒い炎の球より速度を優先させた一撃だ。
しかし大きさに対して異様な威力を持っていることをヘルベールは知っている。
飛び退り避けようと体が動いたが、その場にニーヴェオを置いていくことが心に引っ掛かり一拍遅れた。
――以前ならこんな逡巡などしなかっただろう。
しかしナレーフカが名付けて仲間として改めて迎え入れた記憶が脳裏を過り、足が止まった。
衝撃を覚悟したところでニルヴァーレの風の障壁が何重にも展開され、黒い火球がヘルベールに届くのを防ぐ。代わりになにもない場所から吹く風が熱気を孕んだ。
遅れて降り立ったニルヴァーレは不意打ちを食らったように目を丸くしたヘルベールに笑いかける。
「そんなナリして非戦闘員なのに随分と頑張ってるね!」
「ニルヴァーレ……」
「丁度いい、ヨルシャミをセルジェスたちのところへ連れて行ってくれないか。ここは僕も加勢しないと辛そうだ、さっきなんてモスターシェが空を舞ってたぞ」
そう世間話でもするような軽さでヘルベールに押しつけられたヨルシャミは一目見てわかるほど重傷を負っていた。
外傷もそうだが魔法を酷使したことによる内部へのダメージが相当蓄積しているらしく、見れば片目の焦点が合っておらず呼吸音もおかしい。
鼻や目だけでなく右耳からも真新しい血が流れ出ていた。
ヘルベールが「しかしニーヴェオが」と言いかけたところで、ニルヴァーレがノーモーションで炎のマントと鎌を作り出しながら振り返りもせず親指で背後、つまりヘルベールの隣を指す。
「自分で歩く気満々みたいだよ」
その言葉にヘルベールが視線を向けると、意識を取り戻したニーヴェオがふらつきながらも立ち上がっていた。
骨折はしていない様子だが、脳が揺れたためかなんとか移動はできても戦闘を続行することは難しいように見える。目は無事なものの、そこに宿る微々たる魅了の力もシェミリザには通用せず、攪乱にすら使えないことはすでに確認済みだ。
そう判断したヘルベールはふたりと一匹で後退することに決めた。
ニルヴァーレに頷き、そのままセルジェスたちのいる場所へと移動する。
遠ざかる気配を背中に感じながら、ニルヴァーレは高速で跳び上がるとヘルベールたちを追跡しようとしていた黒く小さな空飛ぶ蛇を切り裂いた。
シェミリザの影の翼から作り出された蛇だ。
「まったく、こっちはヘトヘトだっていうのにまた分体を作れるほど回復したのか」
やれやれと肩を竦めつつ、しかしニルヴァーレは焦りを滲ませることはなかった。
伊織に不穏なことが起こっているかもしれないと理解している。しかし、もしそうなら一番不安なのは伊織本人だろう。
そんな伊織が頑張っているのだから、ここで自分が不安な顔をして士気を下げるわけにはいかない。
そうニルヴァーレは煌びやかな火の粉を舞い飛ばしながら小さな蛇たちを切り裂き、戦場の空を移動しながら仲間たちを鼓舞した。
「世界の穴は確実に閉じている! 一度削ったことでシェミリザの力も有限だって肌で感じることが出来たろ? あともう一息だ、死なないように頑張れ!」
「最後に一番難しいこと言ってるな!」
そう笑いながら応えたのはコウモリの羽で飛び回るネロだった。
しかし過酷な戦場で受ける鼓舞は誰のものでも助かるものだ。
黙々と戦っているとどうしても何度もスタート地点に戻されているような苦しさがつきまとい、明るい未来を見失いそうになる。
そんな闇の中で道しるべのように明るく響くニルヴァーレの声を聞きながら、ネロは魔法少年の衣装を――相棒のネコウモリをぽんぽんと叩く。
「もうひと踏ん張りらしいぞ。終わったら美味いもの作ってやるから頑張ろうな」
ネコウモリはよく食べるが、ウサウミウシほど度を越えた食いしん坊ではない。
しかし味覚はヒト寄りのため美味しいものを食べることは好んでいた。そこでネロはネコウモリが特に好んでいたものを思い出す。
「そうだ、ほら、あれ! チーズチェリーパイを山ほど――……っは!?」
ぶわり、と。
オレンジ色のスカートの裾がざわめき、豪奢なフリルの形に姿を変えた。
変化により起こった波が衣装の表面を走り、それにより各所のリボンが長く美しくなり装飾も増え可愛らしさが増す。
目をぱちくりさせるネロをよそにコウモリ羽が勝手に動き、死角からネロを狙っていた影の針を避けながら超高速で暗い空を猛進した。
「お、お前のパワーアップポイントがわからなさすぎる!!」
相棒の新しい面を知ったネロの声がこだまし、力強いオレンジ色の軌跡もまた仲間たちの鼓舞の一助となっていたが――ネロ本人がそれを知るのはまだ先になりそうだった。





