第940話 けれどわたしは運がいいわ 【★】
シェミリザは再び生まれ直した己の体を見下ろし、握った手を見つめる。
取り込むことは間に合ったが、天の眼球はほとんど死んでいた。
そのせいか予想していたよりも吸収したエネルギーが少ない。
致し方ないことだが、シェミリザは腰元に収まった緑色の虹彩を責めるように見下ろした。失望した相手をなじるような目だった。
『情けないわね、お姉様。ひとりも殺せなかったの?』
シェミリザは状況を大雑把ながら把握した。
天の眼球の相手をしていたのはシァシァ、ネロ、そしてウサウミウシ。
やぐらには探し求めていた伊織とヨルシャミたちがいる。
ステラリカとベンジャミルタも無傷であり、やぐら下で魔獣の接近を防いでいたニルヴァーレもさほど消耗して見えない。
恐らく天の眼球はネロたちを紫の炎で追い回していただけで、戦力としての貢献はほとんど出来ていなかったのだろう。知能は高くはなかったわけだ。
それを察したシェミリザは『せっかく期待したのに』と言葉とは裏腹に楽しげに笑うと紫の炎で作られた腕を動かす。
その腕は今まで存在しなかった部位だが、まるで生まれた時から備わっているもののような自然さで動いた。
『ふふ、けれどわたしは運がいいわ。イオリがこんな近くにいるんだもの』
やぐらから離れ、ヨルシャミとニルヴァーレがこちらへ向かってくるのが見えた。
防衛や補給のために待機などと言っていられなくなったのだ。そう理解し、シェミリザは黒い影の翼をうごめかせる。
そのうちいくつかの翼が背中からぶちりと離れ、子蛇の姿になってヨルシャミたちの元へと飛んでいった。
シェミリザもその後を追おうとしたところで手首になにかが巻きつく。
痛みを伴うその刺激にシェミリザが振り返ると、イーシュが手首に巻きつけた鉄の鞭をグンッと引っ張ったところだった。
「行かせないヨ、シェミリザ!」
『まるで番犬ね。昔は機械以外に愛情なんてなさそうだったのに』
鉄の鞭を引き返し、シェミリザはイーシュを叩きつけようと腕に力を込める。
そんなイーシュの肩から離れたシァシァがシェミリザの腕を駆け上がり、水の刃で首元を狙ったが――紫の炎で出来た腕がそれを阻んだ。
「不死鳥……」
『便利よね、腕だけでなく好きな形に変えられるのよ。お姉様は想像する頭が足りなくてそのまま使うことしかできなかったみたいだけれど……』
そう囁くように言ったシェミリザは腕を大きく振り上げると紫の炎を網状に変化させ、シァシァとイーシュを見つめる。
『不死鳥の力もお姉様の力も、わたしが使いこなしてあげる』
風を切り、炎が燃え上がる音がする。
シェミリザはまるで虫捕りを楽しむ子供のように紫の網を振るった。
超広範囲の網である。最速で離れても範囲から脱することは不可能と判断したシァシァは咄嗟に風の障壁を展開し、網の隙間からシェミリザを狙ったがすべて後手に回ってしまった。
圧縮された水の礫を首を傾ける仕草で避けたシェミリザはシァシァとイーシュを思いきり叩きつけながら地面を抉る。
大きな土煙が上がり、まず最初に視界に入ったのは倒れたシァシァだった。
『また周りをウロチョロされても困るし、潰しておきましょうか』
機械に置換された部位が多いとはいえ、ノーガードでシェミリザの手に押し潰されればひとたまりもない。
ネロが止めに入ろうとしたが紫の炎の腕がぬっと現れて阻害する。
網の目を掻い潜り、どうにかこうにか回避した時にはシェミリザが右手をシァシァに伸ばしていた。
シァシァの目にもそれは見えていた。
しかし体が上手く動かない。
(ダメージの分散を誤って頭をぶつけたかな、これは……あともう少し時間があれば回復できそうだけど)
シェミリザの手はその大きさ故にスローモーションで近づいているように見えるが、速度は遅いどころか馬が全力で走っているのと同等だ。
回復するような余裕はない。
(壊されるの覚悟でバグロボをぶつける? いや、今からじゃズラせても結局巻き込まれる。ヨルシャミ君とニルヴァーレは……嫌な奴に足止めされてるか)
影の翼から転じた蛇はヨルシャミたちに纏わりついていた。
それは以前シェミリザが使った足止めの魔法に似ている。
(ネロ君は――あの距離も難しそうだなァ)
そしてイーシュも傍にいるものの回路をやられたのか沈黙していた。
自分とそっくりだ、とシァシァは自嘲する。
――ここで終わるのだとすれば、亡き妻から名付けたイーシュと共に散るのも悪くはないのかもしれない。
妻のイーシュエのことも、娘のことも守れず、最期を独りぼっちにしてしまった。
だが今は一緒に死ぬことができる。これは救いだ。
「……で、も」
シァシァは咳き込みながら僅かに上半身を起こす。たったそれだけで全身に激痛が走った。
想定以上の負傷だ。
反撃など出来ようはずもないが、シァシァは迫る手の平を見上げる。
「でも、それはイーシュを代わりにしてるだけだ。……伊織を代わりにしたように」
なに何かを代用品にしてばかりだった。
そんな生き方でもいいと受け入れ、伊織を我が子同然に思い始めたことを後悔はしていない。それは伊織もそう望んだからこそだ。
しかしイーシュはシァシァに作られたロボットであり、そこに意思は存在しない。
妻を想い部品を作り、妻を想いプログラムを組み立てた。
かつて憧れた伊織のバイクのように魂が宿っていれば話は違っていただろう。
しかしシァシァは機械に魂を与えることはできず、イーシュが自ら考えてヒトのような思考をするということもなかった。
似たようなプログラムを入れれば見てくれだけは寄せることができるが、シァシァたちは生物の中にある魂を観測できるのだ。
魂の有無は概念的なものではなく、専用のセンサーやシェミリザのような目を持つ魔導師が見れば実際に「あるか無いか」がはっきりしてしまう代物だった。
「イーシュが望んでもないのに……代わりにするのは、これ以上続けちゃならない」
それでなにかが変わるわけでもない。
伊織を代わりにしている事実も変わらない。
しかし、そこにはシァシァにとって譲れない一線が確かに存在していた。
伊織との約束を守るため、せめて最期に悪足掻きをして――それでも駄目なら、きちんと独りで散ろう。
そう心に決めたシァシァは辛うじて動いた腕を前へと突き出し、水の刃を作り出そうとした。その腕の色が周囲より一回り黒くなる。
真上から別の影が落ちたのだ。
傷ついた装甲をばらばらと落としながらイーシュが駆け出し、シェミリザの腕を受け止めている。
そう理解するのにシァシァは数秒の時を必要とした。
その間にイーシュはシァシァの前に立ちはだかったままシェミリザの腕を押し返し、そのたび耳を塞ぎたくなるような軋んだ音を響かせる。
我に返ったシァシァは伸ばしていた手から水の刃を落とし、代わりにイーシュの背中に手の平を向けた。
届くはずがない。
それでも伸ばしたのは、亡き妻を思い出したからだ。
「……雨雪、你为什么要这样做……?」
問いに答える者はいない。
イーシュは右腕が根元から折れた瞬間、先ほどまでシァシァがしていた最後の悪足掻きのようにビームを放った。一回目のように余力を残したものではない、全力になるようすべてを叩き込んだものだ。
製作者だからこそシァシァにはよくわかった。
近距離で放たれたビームは凄まじい爆発も同然で、シァシァは容赦なく後方へと吹き飛ばされる。
回転する視界の中で僅かに見えたのは腕の中を焼きながら駆け上がったビームがシェミリザの頭部を撃ち抜き、しかし止まらない手の平にイーシュが押し潰されたところだった。
そしてありえない角度から視界に入り込む自分の左手。
土煙。
未だ天に居座る赤黒い穴。
その後は碌な視覚情報を得ることができず、シァシァは最後に自分の橙色の花びらが目と鼻の先に落ちたのを確認し――その花を褒めてくれたイーシュエと伊織を思い出しながら瞼を閉じた。
若い頃(結婚前)のシァシァ(絵:縁代まと)
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