第939話 なんて勿体ないの
――天の眼球の破壊前。
シェミリザと拳を交えていた静夏は彼女の背後に移動する伊織たちの影を見た。
ほとんど埃のようにしか見えなかったが、言い換えれば目視可能なほど近くへと来たのだ。
それはやぐらの位置から考えて、伊織たちの任務も最終局面に入ったことを示していた。
連絡魔石で一報を受けていても息子の雄姿を自分の目で見れたことが嬉しい。
しかしそれはシェミリザに伊織の位置を把握される危険性も帯びていた。
静夏は異なるふたつの感情を抱きながら目元に闘志を滾らせ、シェミリザの注意を自分へ引くべく猛攻を続ける。
シェミリザは人ならざるものへ身を堕としたが、余裕を削れば集中力や注意力が欠如するのはヒトと同じだ。今はシェミリザも天の眼球に気を取られているらしく、まだ伊織たちには気づいていない。
倒しきるには決定打に欠ける今、この状態を保つことこそ最善の手だった。
『そろそろ大物をひとりくらい潰したいところだけれど……付け焼刃の連携でも怖いものね、しぶとくてびっくりしたわ』
兵士や魔導師たちも手練ればかりだが、シェミリザはそんなもの眼中にない様子で言った。
そんな蔑ろにされた者の中にはレプターラの民も含まれている。
口を一文字に引き結んだリオニャはボクサーのような構えで地面を蹴るとシェミリザの腹部目掛けて一気に距離を詰めた。
『直線的な動きね、そんなに怒っているの?』
「怒ってますけど我は失ってません、……ッよ!」
リオニャは頭上から降り注ぐ黒い炎に臆することなく進むと、突然消えたと錯覚するほど唐突に横へ飛んで死角に入り込んだ。
直進の態勢から即座に方向転換し全力で走ったのだ。
それはハーフドラゴニュートの強靭な足先のみで行なわれた豪快且つ繊細な動きだった。
無理な方向転換で一切のバランスを崩さず接近したリオニャは一枚の傷ついた鱗を視界に入れるなり、その鱗を指先でカチ割る形で右手を突き刺す。
『……!』
「ッせい!!」
リオニャは突き刺した腕を軸にシェミリザの巨体を持ち上げた。
蛇の胴体は長く、すべてが持ち上がったわけではない。
しかしこのまま投げ飛ばされるという予感をシェミリザの全身に駆け巡らせるには十分な胆力だった。
ただし、攻撃を受けた代わりに『リオニャがどこにいるか』ははっきりと把握することができる。
シェミリザは影で作られた蛇の大きな牙をリオニャの背に向かって打ち出した。
その蛇の牙を目にも留まらぬ速さで駆け出したパトレアが蹴り飛ばす。
「かッたいでありますね!」
「パトレア! また足が吹っ飛びますよ、無茶な動きは控えなさい!」
代わりとばかりにセトラスが再生成された蛇の牙を撃ち落としながら言った。
辟易した表情を浮かべながらシェミリザはそのままリオニャに投げ飛ばされ、上半身を地面に擦ったところで先回りしていた静夏の重い一撃が浴びせられる。――否、それぞれが重すぎる一撃、だ。
それは拳の連打だった。
静夏自身はシェミリザに比べればマウントポジションも取れないほど小さい。
しかし繰り出される一撃一撃の拳圧はシェミリザの頭よりも大きな拳があると幻視させるに値するものだった。
――シェミリザは回復する。
それは数多の魔獣を取り込んできた恩恵だ。だがその恩恵は有限だった。
シェミリザにとって新たな魔獣を得るのに適さない環境が続いている。
世界の穴がシェミリザを侵略に最適と判断したのか、魔獣が取り込まれるべく本能に突き動かされるように向かってくることはあったものの、それでも足りない。足りるはずがない。
さあどうしようか、と考えながらシェミリザは未だ崩れない余裕を覗かせて静夏を振り払い、影の翼で羽ばたいて距離を取った。
その隙を逃さずオルバートの銃弾が飛ぶが、それを片手で防ぎ、シェミリザは鼻から流れ落ちる黒い血を舐め取る。
『もう、仕方ない子たちね』
血だらけの腕を高く上げたシェミリザは囁くように言った。
その手の平に圧縮された炎が現れる。しかし以前のものと比べてサイズが桁違いに大きい。
『消費は激しいけれど――あなた達のために使ってあげるわ』
受け止めてね、と。
それを放とうとした瞬間だった。
「そんなもの俺の仲間に投げつけるんじゃねぇっての!」
空に影が横切ったかと思えば、突如そんなセリフと共にバルドが降ってきたのだ。
彼を捕まえて飛行していたミミズクの魔獣は脚を深く切り付けられ、ふらつきながら離れた位置へ落下する。
途中下車のような形で空中に投げ出されたバルドはシェミリザのうなじ目掛けてナイフの切っ先を向けた。
シェミリザからすれば小さなナイフだ。
しかし突き刺した先から新たなナイフを取り出して的確に何度も突き刺し、急所を露出させるまでに十秒とかからなかった。
それもこれもナレッジメカニクス製の恐ろしい切れ味を持つ刃物だからこそだ。
脊髄を傷つけられたところでシェミリザはすぐに回復するが、一瞬のタイムラグがある。
その最中に繊細な操作を必要とする魔法を使っていたらどうなるか。
『……っ!』
限界まで圧縮されていた炎のコントロールが乱れ、シェミリザの頭上で恐ろしい爆発を巻き起こす。
その場にいた全員が地面に叩きつけられるほどの衝撃が襲い掛かったが――炎をそのまま投げつけられていた場合と比べて死者はいなかった。
『……行儀が悪いわね』
「お前にそういうこと言われたくないな!」
全身に火傷を負った状態で地面に叩きつけられたバルドだったが、シェミリザの憎まれ口にそう返した頃にはすべての傷が癒えていた。
バルドはオルバートより捨て身の攻撃に慣れている。
シェミリザは面倒なものが増えたことに眉根を寄せたが、すぐに笑みを浮かべると目標ができたと言わんばかりにバルドを手で追った。
『邪魔する子は少しでも少ないほうがいいわ。あなたとオルバ、ひとつに戻してあげましょうか』
「そんな気遣いはいらないっての!」
「そんな気遣いはいらないよ」
離れた距離ながら同時に言い放ったバルドとオルバートは心底嫌そうな顔をしながらそれぞれ即座に動く。
バルドは振り向きざまにナイフでシェミリザの指先を切り裂き、オルバートはそんな手を撃ち抜いた。
腕を引いたシェミリザだったが、フッと息を吹きかけるような仕草で炎を吐くと一気に広範囲へと広げる。炎そのものの攻撃力は黒い炎に大分劣るようだが、普通の炎でも燃え移れば命取りになるものだ。
動きの制限されたバルドを掴んでオルバートに投げつける、それだけで終わるだろうとシェミリザは踏んでいた。
だが、そこへ静夏の炎をも鎮火する拳が唸る。
拳圧の通り過ぎた跡がまるで炎の中に敷かれた道のようだ。
すかさずシェミリザは代案として召喚獣を呼び出そうとしたが、そこであるものが視界に飛び込んできた。
『あら、なんて勿体ないの』
「一体なにを……、!!」
バルドは天の眼球がある方角を見る。
先ほどの圧縮された炎の爆発音で掻き消されたが、どうやら同時に天の眼球もなんらかの方法で爆破されたようだった。
それを見てシェミリザは失敗した子供を見るような目をする。
『そこのミミズクも気になるけれど――あっちのほうが重要ね』
シェミリザが転移魔法を使わずに静夏たちの相手をしていたのは、今後のために少しでも削っておくべきだと思ったこと、そして飛んでもベンジャミルタの転移魔法ですぐに追いつかれると仮定したからだ。
ベンジャミルタは現在離れた位置にいるが、転移魔法なら駆けつけることが可能である。
――実際にはシェミリザ同様にインターバルが存在するが、このインターバルは人それぞれのため、シェミリザはどれほどの時間を開ければ再びベンジャミルタが転移魔法を使用可能になるか知らない。
知らないことは大きなアドバンテージのロスであり、危険な判断を下してしまうことがある。
ならば危険性を多めに見積もって対策しようと考えていたわけだ。
加えてナレッジメカニクスの一員たちなら転移魔石を持っているだろう。
それもベンジャミルタ離脱後もシェミリザが警戒を続けた理由のひとつだった。
転移魔石への魔力の補給ができない面子ばかりのため、それも回数制限があるが警戒するに越したことはない――が、それらのリスクをすべて負ってでも動くべきだと判断し、シェミリザはにこりと微笑む。
その笑みが静夏たちの目に焼きつく前に姿が掻き消えた。
転移したのだ、とすぐさま察した静夏は迷うことなく天の眼球の残骸がある方角を見る。やはり黒い蛇のシルエットが傍に見えた。
「今も昔も退くタイミングがねちっこいですね」
「……セトラス」
「転移魔石で追いましょう、あっちにはイオリもいるんでしょう」
セトラスの言葉に静夏は頷く。
シェミリザが魔獣を取り込むこと、そして伊織を殺すという二つの目標を達成する前に阻止しなくてはならない。片方はもはや阻止することが叶わなくても。
静夏は腕を上げると、その場にいる全員に近くへ集合するよう指示を飛ばした。
その向こうでシェミリザが天の眼球の残骸を抱き込み吸収する。
再び生まれ直した姿は、一対の眼球が元の姿に戻ったような雰囲気を纏っていた。





