第932話 ふと思い出すほど残っている
潮風に乗って届く不快な臭いは魔獣のものだろうか。
そう顔を上げたアズハルは何体目かもわからない飛行型魔獣を踏みつけた。
一体一体は弱く、一般人でも成人が三人ほどいれば討伐できる程度だったが、如何せん数が多い。その上、よく見かける魔獣より知能が高い様子を見せていた。
「まだ力づくでどうにかなるが、……」
きっと次がある。
そしてそこから更に続く第三陣、第四陣の予感がした。
ここは人間の多い街だったようで、居残っている住民も見たところ人間ばかり。
人間の魔導師は貴重なため、案の定ここにはひとりも魔導師がいないようだ。
かといって凄腕の剣士や格闘家がいるような気配もない。
(避難前は治療師を含め数名滞在していたようだが、致し方あるまい)
アズハルが自分ひとりで住民を守る決意を固めたところで、酒蔵に隠れていた人間たちがこちらを見ていることに気がつく。
酒蔵は熟成や貯蔵のための大きな地下室を有しており、集めた住民たちを纏めて避難させていたのだ。どうやら静かになったので様子を見にきたらしい。
「退け、恐らく次が来る」
「ですが今のうちに手当てを……」
自分のために出てきたのか、と気がついたアズハルはほんの少し目を見開き、すぐに普段の状態に戻ると首を横に振った。
「怪我はしていない。これはすべて魔獣の血だ、それも魔獣が塵となれば消えよう」
「けど顔くらい拭きましょうよ、目に入ったら大変だし!」
そう言って元気良く飛び出してきたのはタオルを持った少年だった。
十代前半から中頃で、アズハルがこの港町に着いて最初に助けた青い目の少年だ。
戻れと低い声で命じたものの、少年は魔獣の死骸を恐る恐る踏み越えながらアズハルに近づいた。
(このように大量の死骸を見ることなどなかっただろうに勇猛な……いや、無謀か)
しかも駆け寄る対象が血濡れの不審な男だ。
怖くないのだろうか、とアズハルが見ていると目の前まで到着した少年がタオルを差し出す。
「お兄ちゃん、名前はなんていうんですか?」
「お前にはそんなことを訊ねる前にやるべきことがある。酒蔵に戻り地下へ隠れることだ」
「もちろん隠れますよ、お母さんが心配するし。けど隠れて祈っている間に恩人の名前を呼んで応援したいんです」
そんなことのために?
そうアズハルは表情を動かさずに驚いたが、少年は本気も本気のようだった。
――怯える住民にパニックを起されても困る。
ならひとつでも多く役目や縋れるものを与えて精神を安定させた方がいいか。
アズハルはそんな答えに辿り着き、海を警戒しながら口を開いた。
「アズハルだ」
四つの音を聞いた少年は「へー!」と感心した様子を見せる。
「遠い国の王様と同じ名前なんですね、……あ、でもその王様は変わったんだっけ」
「ここまでそんな話が届いているのか」
国外追放となったアズハルはあれから様々な国を渡り歩いていた。
この港町はレプターラからふたつほど小さな国を跨いだ先にある土地だ。
距離としてはベレリヤへ行くほど遠くはないが、間に大きな山脈が通っているため人々の行き来は自然と制限される。
だが魔法を使える者が多い異種族なら話は別だ。
少年もすぐにその単語を口にした。
「うん、逃げてきた異種族の旅人とか多かったから。すごく悪い王様だったって聞きましたけど――」
そう、悪い王である。
表舞台に立ち悪政を敷いていたのは影武者たちだが、その裏で改善に乗り出さず鬱々と暮らしていたのは他でもないアズハルだった。
心の中でそう頷いたアズハルの耳に少年の声が届く。
「お兄ちゃんは悪そうじゃないし、怖くもないです!」
「……」
無邪気な笑みだった。
誉め言葉にそれはどうなのだとアズハルでも思ったが、離れたところで他の住民に支えられた母親が誤解を恐れてはらはらしているのを見るに悪気はないのだろう。
アズハルに特に思うところはない。
しかし子供の笑顔でふと思い出すものはあった。
「――せめて少女を見て思い出せと言われるか」
「? 誰かと似てましたか?」
「娘だ」
純真無垢に見えて強かで物言いが素直な娘。
アズハルに憎しみを向けず、断罪してくれなかった娘。
その夫であるベンジャミルタとは追放後も肉体の維持に必要な魔石を受け取るために時折顔を合わせていたが、リオニャとはレプターラで別れたきりだった。
それでもなお、ふと思い出すほど記憶に残っていることにアズハルは苦笑する。
父と娘として接したのはほんの僅かな期間だけだったというのに、と。
少年は驚いた表情を見せた。
「子供がいたんですか! へー、なら、えっと」
「なんだ」
「俺、こうなる前は食堂で働いてたんです。落ち着いたら娘さんと一緒に来てください、お礼がしたいんで」
不躾な恩返しだ。
そう心の中で思いつつも邪険にできず、アズハルは「考えておく」と伝えて顔を拭ったタオルを少年へ返す。
この約束は未来のためのものだ。
死の危機に瀕したここの住民には必要なものだろう。
少年がそんな危機を感じているようには見えなかったが――助けた瞬間の表情を思い出すに、彼は十分状況をわかっている。その上でならやりたいようにやらせよう、とアズハルは判断した。
頭を下げた少年は汚れたタオルを持って酒蔵へと戻っていく。
それを見届けたアズハルは一度だけレプターラのある方角を見遣った。
「呪われた肉体でも活かすことはできるか……」
それを繰り返していけば、いつか己の肉体を心から受け入れられるかもしれない。
こうなって良かったと一瞬でも思えるかもしれない。
アズハルは赤い瞳を海の果てへ向け直すと、拳を固く握った。
青い海の向こう。
そこに再び黒い影がちらついていた。





