第929話 バルドの不快な空の旅
血の混ざった汗を拭い、解けて頬にかかる髪を払い除けたメルカッツェは大岩のように大きな猪の魔獣が完全に事切れていることを確認すると、重力に任せてその場で大の字になった。
そこへバルドが駆け寄ったが、負傷による昏倒ではないと最初から理解しているため焦りはない。理由は単純明快、疲労によるものだ。
「大丈夫かい? 最後までめちゃくちゃ粘ったなこの魔獣……」
「オリトさんが囮を買って出てくれなきゃ更に厄介だったろうな。あァ~! しっかし疲れた、戦い始めて何時間経ったんだ?」
メシ食う時間も無かったぞ、と言いながらメルカッツェは寝転がったまま携帯食料を無造作に口に運ぶ。
バルドとしてはこういう時こそ栄養価が高く美味しいものを食べてほしかったが、戦場の真っ只中でそれは贅沢というものだった。
メルカッツェは回復に努めながら低い視点から周囲を見る。
こうして無防備に横になっていられるほど魔獣が減った。
その理由や散った魔獣が向かった先など大まかには把握しているが、ここで慌てふためいたところでなんの益もないと平常心を保っている。
代わりにメルカッツェはバルドに顔を向けた。
「……なぁオリトさん、俺ァ今ならあんたを見送れると思うんだが、どうだ?」
「あー、そんな駆けつけたそうな顔してたか……?」
「してたしてた」
連絡の中にはシェミリザの足止めを行なう聖女マッシヴ様に関するものもあり、それを知った時からバルドは気になって仕方ない様子だった。
離れて戦うことに異論はない。
しかし今も昔も惚れ込んだ相手が足止めを担っており、その足止めへ向かえる者は向かえという連合軍としての方針が打ち出されているのなら――自分も駆けつけたい、というのがバルドの心境だ。
それを汲み取ったメルカッツェが笑う。
「俺ァさすがにここに留まるけどな、多分おかわりが来るだろこれ」
「メルカッツェひとりで大丈夫か?」
「オイオイ、そういう心配の仕方は失礼だぜ。安心して任せろ、地獄は嫌ってほど見てきたからそう簡単にゃくたばらねェからよ」
それに遠くからフォレストエルフの嬢ちゃんが援護してくれるだろ、とメルカッツェは後方拠点のある方角を見る。
リータの姿はここからは見えないが、戦闘中も度々援護の矢が飛んできては正確に魔獣を射貫いていた。
バルドは頷くと連絡にあった方角を確かめ、疲労の溜まった足で走り始める。
「メルカッツェ、ありがとうな。メリーシャのためにも無事でいろよ!」
「俺になにかあっても泣きベソかく奴じゃねェよ」
ひらひらと手を振るメルカッツェを見てバルドは「メリーシャも前途多難だな」と苦笑した。
だがきっとメルカッツェにも考えがあるのだろう。
誰かから寄せられる想いに疎いメルカッツェではない。
ならば彼の問題は彼の問題、深入りはしないでいようとバルドは頭を切り替える。
そのまま走り続け、時折現れる魔獣をナイフで切り伏せ進んでいく。
だがそうするともちろん進みが悪い。
振り払えるものは振り払ったが、速度の都合上どうしようもない戦闘が多かった。
なにせミッケルバードにはもうほとんど身を隠せる物陰が存在しないのだ。
世界の穴から離れた海辺沿いなら地形は温存されているが、中央に向かうほど地形は荒れる――というよりもリセットされていく。
そんな時、空に金色の針が三本舞うように飛んでいるのが見えた。
一本しか操れなかった針と糸を三本分作り出している。
「伊織……」
――あんな使い方をして大丈夫なのだろうか。
――無茶はしていないだろうか。
バルドは魔法に関する知識はほとんど持っていない。
長く生きた時間の中で接することが多く、上澄みのような情報なら知ってはいるが、本人が魔導師ではないがために理解に至っていないのだ。
書物から得られる知識など魔導師たちからすれば魔法の数%も理解していないと感じるだろう。
(でも伊織の傍にはヨルシャミがいる。あいつが伊織を止めなかったのなら、きっと大丈夫だ)
魔法に関する知識はなくとも、ヨルシャミへの信頼はある。
バルドは心配から逸る気持ちを抑え、今は自分にできることをやろう、と足を動かし続けた。
だが突然その両足が地面を離れ、ふわりと体ごと宙に浮く。
意図しない浮遊感にぎょっとして上を向くとふわふわの羽毛が見えた。
「っ……ミ、ミミズク?」
巨大なミミズク型魔獣である。
ただし尾羽だけ目玉模様の長い羽が連なり、まるで鳳凰のようだった。
音もなく後ろから迫っており、加えて周辺が元から暗かったため影が落ちたのに気がつけなかったのだ。
バルドは足から逃れようともがいたが、途中ではっとして前を見る。
(この方角はシェミリザのいる方だ。もしかして仲間のところに持って行ってから殺す気か?)
もしかするとこのミミズク型魔獣は攻撃手段が乏しいのかもしれない。
もちろんただのヒト相手なら大きなくちばしや鉤爪で引っ掻くだけで殺せるだろうが、ミッケルバードにいるのはほとんどが戦闘の精鋭や高位魔導師である。
そんな中でより確実な方法を取っている可能性があった。各地で目撃報告のあった運搬役の魔獣も攻撃は率先して行なっていなかったという。
ならばこのまま運んでもらおうじゃないか、とバルドはひと時の間だけ獲物でいることを良しとした。
「決して快適な空の旅じゃない、っていうか爪が食い込んでヤバいが……」
自分の足で走るよりは何十倍も早い。
そうして不快な空の旅を続けていると、しばらくして暗闇で俊敏に動く巨大な黒い影が見えてきた。人間の上半身に大蛇の下半身、そして影の翼が二対生えている。
「……あれがシェミリザか」
随分と変わってしまった。
あそこまでしてなにかを成したとして、果たしてシェミリザは満足できるのだろうか。支払った対価のほうが多いのではないか。
バルドはそんなことを思いながら、いつでも下りられるようにナイフを構え――そして、突然真上から視線を浴びてぞわりと鳥肌を立てた。
「は……?」
ミミズクの魔獣のものではない。
そして真上を向いたところでミミズクの羽毛しか見えなかったが、視線の主は首をもたげずとも少し視線を上げるだけで十分に見ることができた。
世界の穴の赤黒く奥深い場所から眼球がこちらを見ている。
その大きさは、世界の穴が現在開いている部分の三分の一を占めるほどだった。





