第915話 右手を握る者、左手を握る者
ミュゲイラは子供の頃から弓がとても不得手だった。
フォレストエルフは幼少期から魔法弓術の手解きを受け、魔導師としての適性がない場合は通常の弓矢を習う。
しかしミュゲイラは一メートル先の的を狙えば地面に突き刺さり、ならば的を地面にしたらどうだと試してみると矢が斜め上にスッ飛んで木の枝に当たるという折り紙付きの弓下手だ。
つまり、魔導師の才能もなければ弓術の才能もないフォレストエルフである。
人間なら普通だがフォレストエルフから見れば『持つべき才能に恵まれなかった子供』だった。
人間との交流や取り引きも盛んな種族のため、弓下手だからといって将来が閉ざされるわけではないが、両親はとても心配した。
ミュゲイラは父と母を安心させるべく様々なことに挑戦し、弓下手でも人並みの大人にはなれると示したかったが――まず裁縫は壊滅的。むしろ仕事を増やす。
料理は食べれないものを作るということはなかったが、しかし美味しいわけでもなく、その上成長がとてつもなく遅い。
狩りは飛び道具がないとなかなか上手くいかず、ならば罠はどうかと仕掛けてみるとミュゲイラ本人がかかった。経緯は謎である。
釣りは釣具ごと魚に奪われた。
育てようとした作物はなかなか上手く育たない。
そして馬に乗るのも下手で、ついでに勉強もからっきし。
それはつまり人間たち相手に満足に商売できないということであり、両親の頭を更に悩ませることになった。
幸いにも森に関する知識――植物の特性や可食か否かの判断、天気の予測等は覚えることができたが、これはフォレストエルフの一般常識に含まれるため安心する要素にはならなかっただろう。
それを身に染みて感じながら成長したものの、ミュゲイラ本人は「まぁなんとかなるって!」という楽観的な考え方、見方を変えれば底なし沼級のポジティブな思考をしていた。
選択肢は少ないが食うに困るほどではない。
外にひとりで放り出されれば話は別だが、里の中でなら生きていける。
しかし妹のリータが生まれた時、ミュゲイラは姉として彼女を守る選択肢さえ少ないのだと気づかされた。
それでも成長すればなんとかなるはず。
そう思っていた矢先に魔獣が里を襲い、あわや全滅といったところを救ったのが――当時はその正体を露ほども知らなかったが、筋肉の神オルガインである。
各地で魔獣を討伐することで世界を守る一助になっていたオルガインは、その道中でミュゲイラたちの故郷であるフォレストエルフの里ミストガルデを守ったのだ。
魔法弓術の矢よりも速く、そして力強く振るわれた拳にミュゲイラは魅了された。
そうして「あたしもああなりたい! 筋肉でみんなを守りたい!」と己の筋肉を鍛え始めたのがすべての始まりである。
エルフ種は筋肉をつけることに向いていないため、成果はすぐには出なかったが、それでもなお打ち込めるものがミュゲイラにできたことを両親は喜んでいたようだった。
もちろんリータ共々呆れることも多々あったが、それはそれである。
しばらくして、事故で両親が同時に他界した。
とある馬車の護衛として森の外へ同伴していた時のことで、落石に遭って全滅しているのが同じ道を通りかかった旅人たちにより発見されたのだ。
その日は雨が降っていたようで痕跡はほとんど消えていたが、崖の上は木々が生い茂っていたおかげか比較的当時のまま保存されており、野生動物がなにかと争った跡――血痕や体毛、削れた地面などが残されていたという。
体毛は二種類あった。
ひとつは大型の熊。
そしてもうひとつはどの野生動物にも当てはまらない、赤々とした太い毛。
恐らくそれは魔獣のものだろう、と里長のミルバは言っていた。
世界を侵すならば、防衛の要として機能しているヒトを襲え。
そういった本能によるものか、魔獣は野生動物よりもヒトを優先して狙う。
野生動物を率先して襲うのは周囲にヒトがいない場合や、食に固執している個体などの理由がある時だ。
しかし野生動物から見ても異様な敵性生物であることに変わりはなく、世界そのものに害意を向ける魔獣は一目見ただけで恐ろしく感じる。
そんなものに突如出くわした際、驚いた熊のほうから魔獣へと襲い掛かったのではないか、という予測が立てられた。
そうして二匹で暴れているうちに岩にぶつかり、転がり落ちた岩が馬車に激突したというわけだ。
しかしそれらはすべて予想であり、事実かどうかは確かめようがない。
念のためとっておいた魔獣の毛もある日塵のように消えてしまったため、どこかでひっそりと討伐されたのだろう。
そうしてふたりっきりの姉妹になったミュゲイラはリータと共にミルバの庇護のもと育ち、その間も筋肉を鍛え続け――記憶が新しくなるにつれ、ああ自分は過去の思い出を順番に辿っていたのかと自覚した。
(あれ? ん? これ寝てるのか?)
夢の中だろうか。
そう周囲を見ようとしたミュゲイラだったが、手足が動かないどころか瞼すら開けられない。
不思議と焦りはなかったが、それは例えるなら遅刻していると確認する前の布団の中での微睡みに似ていた。
(あたしはたしか……ミッケルバードに行って、それで……)
単眼の蛇と戦っていたはず。
途中でふっつりと途切れていた記憶だったが、その瞬間ミュゲイラは全力で単眼の蛇を殴りつけたところまで思い出した。
(手応えはあったけど相打ちか?)
確かめようがない。
そう、両親の死因と同じだ。
つまり『そうである可能性』と『そうでない可能性』が両方ある。
仲間たちのことを思うなら悪い方の可能性を前提に考えた方がいいだろう。
しかしこんな状態でどうすればいいのか。
全身の筋肉も押し黙ってしまっている。心筋すらどのような状態なのかさっぱりわからなかった。
ミュゲイラは動けないまましばらく途方に暮れていたが、この無意味な時間が過ぎる間も誰かが死と隣り合わせになりながら戦っているかもしれない。
倒れた仲間たちやシエルギータはどうなったのか。
気になるというよりも、確かめる義務がある。
ミュゲイラはそう自分を鼓舞して無理やり立ち上がろうと全身に力を込めた。
筋肉が応えてくれないということは休養が必要なのかもしれない。
筋肉だって酷使すれば休む時間が必要になる。
しかし今は、今だけはもう少し頑張ってくれと腕を震わせたところで何者かに両手を引かれた。
右手と左手をそれぞれ違う人物に引かれているのか感触が異なる。
ふわりと引き上げられ、両足が地面についたところで初めて瞼が開いた。
ミュゲイラは自分の体格を理解しているつもりだ。この大柄且つ筋肉で重くなった体をふたりがかりとはいえ軽々と持ち上げた相手は相当逞しいのだろう。
もしかして静夏の姉御かも。
でもそれなら姉御ひとりで持ち上げられるんじゃ?
「……!?」
そう疑問を抱きながら、助けてくれた人物に目をやったミュゲイラは絶句する。
見上げた先に居たのはふたりの大人。
特筆するほど体格は良くない。それを――そう、見上げているのだ。
自覚したところでミュゲイラはようやっと自分が子供の姿になっていることに気がついた。ならばこのふたりが軽く持ち上げられたのも納得だ。
実際に子供の頃に何度も経験している。
目の前に立ていたのは、父のリズと母のメオリアだった。





