第914話 筋肉による純粋な物理現象
シェミリザの拳が地面に易々と突き刺さる。
足元の土ごと大きく持ち上げられた静夏は不安定な足場を物ともせず跳躍すると、シェミリザの腕を伝って駆け上がった。
ヒトとしての自我がそうさせたのか、進化によりシェミリザの上半身はヒトのものにすげ変っている。
防御力に優れた蛇の鱗を自ら捨てたのだ。ならば狙いは自ずとそこへ集中する。
しかしシェミリザもそれをわかっているのか、行く手を阻むように炎の壁を展開するなりもう片手で静夏を叩き落した。
確実にとどめを刺すためにはまだ隙がない。
(そして驚異的な生命力そのものは変っていないだろう。とどめを刺すなら――試すべきは心臓か)
脳か、心臓か、第一頸髄の周辺。
その中から静夏が選んだのは心臓だった。
静夏は直接見てはいないが、単眼の蛇の頃に頭部へのダメージを負っていたにも関わらず即死はしていない。
まだ試したことがなく、シェミリザ自身もどのようなダメージを受けるか予想ができていない心臓を狙うのは良い手であった。
(……まずは隙を作る)
叩き落されながらも空中ながら拳圧で体の向きを変え、ここぞとばかりに襲い掛かってきた黒炎の塊をすんでのところで避ける。
今ここに圧縮魔法を使える者はいない。
初めてあの炎を身に受けた時のように、ヨルシャミの手で消せない炎を『消さないまま圧縮し取り払う』などという抜け道はないのだ。
命がけの曲芸のようなしなやかさで避けきった静夏は着地するなり地面に転がっていた石を掴む。
世界の穴による吸い上げでほとんどなにも残っていない地面だったが、先ほどシェミリザの手で掘り返された際に土の奥底から現れたものだ。
成人男性が両手でようやく持てるような、喩えるならボーリングの玉を二倍にしたような代物である。
それを小石を拾うように持ち上げた静夏は大きく踏み込み、体を捩じってシェミリザの顔目掛けて投げつけた。
石が手から離れる直前まで全身の筋肉に言い聞かせる。
この石が自壊してしまわないギリギリのスピードで投げろ、と。
その願いは見事に実現し、石は形を保ったまま出せる最高速度でシェミリザの鼻先に迫る。
『その投げる動作って、今のあなたには不向きだと思うけれど?』
シェミリザは魔法すら使わず手の平でそれを受け止めた。
黒炎の塊は一度避けたからといって無くなるわけではない。
放った後はシェミリザの制御下から外れるが、ある程度は獲物を追うように仕込んである。避けた後に静夏も追尾する黒炎の塊を確認していた。
そして静夏の投擲はあまりにも動きが大きすぎるため、投げた後に隙と死角が多くできる。そんなところへ黒炎の塊が迫ればあっという間に燃え上がるだろう。
シェミリザはそんなデメリットを指して笑ったが――石を防いだ直後、視線をやった先に静夏はいなかった。
『……!』
「お前も巨大が故に死角が多いな、シェミリザよ」
静夏は投げる動作の勢いを利用し、前へと飛び出る形で前転したのだ。
石は視線をそちらへ集中させる、もしくは顔を背けさせるための誘導である。
そのままシェミリザの死角へ飛び込んだ静夏は空気を殴りつけ、圧縮された衝撃波をシェミリザの顎に命中させた。
頭部を吹き飛ばすような威力はない。
しかし的確な角度から放たれた衝撃波はシェミリザの脳を揺らした。
――存外大きく隙ができた。
これなら、とぐらついた巨体の後ろに回った静夏は背中側から心臓を殴りつける。
心臓だけでなく脊髄も巻き込める位置だ。
もし避けられても下半身の麻痺が見込める。蛇の下半身にどれほどの影響を及ぼすかは未知数だが、試す価値はあるだろう。
そう思わせるほど大きな隙だった。
しかし――拳が届いた柔肌はその見目に反して鋼鉄よりも硬く、まるで単眼の蛇の鱗のように拳が食い込むのを拒む。
「なに……?」
『わたしみたいなのを相手にブラフを仕掛けるなんて大胆ね。でも――』
シェミリザは蛇の尾をぐにゃりと曲げると強かに静夏を打ち据えた。
そのまま地面に叩きつけられた静夏を見下ろして笑う。
『ヒトの姿をしていても特性は消えていないの。強化は変化を促せど退化はしないみたいね、地面を殴った時に全然痛くなくて気づいたわ』
それでわざと食らってみたのよ、とシェミリザは立ち上がろうとする静夏を何度も何度も蛇の尾で殴りつけた。
そこへ黒炎の塊がするすると近寄ってくる。
魔法で作られた現象は特殊なものや魔導師の練度が低い場合を除き、大抵が使用者本人には影響を及ぼさない。最たる例が魔法弓術の炎の弓矢である。
こうして足止めをし、黒炎の塊たちが群がれば静夏だけを燃やし尽くすだろう。
ただし大掛かりな魔法のため、あと十分もすれば一からやり直しになる。
魔獣混じりの体となり、進化の過程で魔力量が飛躍的に増えたとはいえこの後に控えている仕事――伊織の始末とそれに際して相手をするはめになるであろうヨルシャミたちのことを考えると、シェミリザは一度で済ましてしまいたかった。
『ふふ、ただ脳を揺らすのは普通に効いたわ。だから少し焦っちゃった。相変わらず不便なところもあるわね、この体』
シェミリザは大きな両手を差し出すと、虫でも捕らえるように静夏を握り締める。
絞めるなら蛇の下半身のほうが向いているが、それ以外もヒトの見てくれの中に何百倍にも圧縮された筋肉を詰めた巨体だ。
細く見える指の一本一本が尾並みの強さを持っている上、それを十本駆使できるのならこちらのほうがいい。
こっちは便利な部分ね、とシェミリザは微笑みながら静夏を捻ろうと手を動かす。
しかし異変があった。
手の平から静夏の鼓動が響いてくる。これだけ体格差があるのに、だ。
それは静夏が鼓舞した心筋によるものだった。
『――怖いわね。もう筋肉魔法とでも名乗ったらどう?』
静夏はそんなシェミリザの声を掻き消すように雄叫びを上げると、凄まじい剛力で彼女の指をこじ開けて素早く抜け出す。
間近に迫っていた黒炎の塊に靴がちりっと擦れ、足首に向かって燃え広がる前に脱ぎ捨てた静夏は素足で地面に降り立った。
そして鋭い眼光を向ける。
「いいや、これは私の筋肉による純粋な物理現象だ」
『あら、冗談だったら笑ってあげたのに』
シェミリザは再び殴りかかる静夏の一撃を受け止め、攻勢に転じようとしたが転じきれず防御を挟むはめになった。
心拍数上昇の影響か、先程より威力が増している。
これが筋肉に愛されるということなのか。そうシェミリザは目を細める。
――絶え間なく殴り、殴られ、蹴り、蹴られ。
シェミリザは蛇の利点とヒトの利点を目一杯持ち出して静夏の一撃を正面から受け止め、時に反撃したが静夏も負けず劣らずの様子で攻防を繰り広げた。
サイズ差などあって無いようなものである。
シェミリザは筋力だけでなく魔法を駆使してなお決定打に欠けることを自覚しつつあったが、この体に慣れるなり再び他の魔獣を吸収するなりすればなんとかなる、ということも感じていた。
(攻撃を加えながら魔獣の多い場所へ移動できれば、ここで聖女マッシヴ様を叩き潰すことも可能に……)
なるはず。
そこまで考えたところで空が視界に入ったシェミリザは言い知れぬ焦燥感を背筋に感じる。
三分の一程度だが世界の穴が無理やり閉じられていた。
しかしこの巨大な穴の三分の一である。
相当な範囲を金の糸で閉じられてしまった。
(わたしが自我を取り戻した時に閉じられていた部分と経過時間を考えると……)
もうこんなに、というのが正直な感想だ。
シェミリザは伊織の顔を思い浮かべて苦笑する。
(ぶっつけ本番の中で慣れてスピードアップしてるのね、若いって怖いわ)
伊織たちは人工の穴を閉じた経験で、本物の世界の穴の閉じ始めにハプニングがありつつも比較的最良の状態でスタートを切れた。
そして針と糸を駆使し閉じる作業を繰り返すうちに、今度はそのスピードが増したというわけだ。
シェミリザは途中経過を知らないが予想は概ね当たっていた。
不安要素を取り払うことも大事だが、その前に穴が閉じられてしまっては元も子もない。
シェミリザは殴打を避けるついでに大きく後ろへ飛ぶと静夏から距離を取った。
『ごめんなさいね、あなたに付きっきりというわけにもいかないみたい』
「どこへ行くつもりだ」
『ふふ、大体予想はついてるんでしょう? でも追いかけてきちゃ嫌よ。それに』
シェミリザは静夏の後ろを指さす。
『あの子、心臓が止まっちゃってるわよ』
「――!」
人差し指の先には地面に倒れたままのミュゲイラがいる。
静夏の意識がそちらへ向いている間に羽ばたく音が二度続き、視線を戻した頃にはシェミリザの姿は掻き消えていた。
静夏は追おうと両足に力を込めたが、ミュゲイラたちを放置していくわけにはいかない。
シェミリザが逃れるために嘘をついていようが、逆に本当のことを口にしていようがこのまま置いていける状況ではなかった。
「……」
伊織の傍には頼もしい仲間たちがいる。
そして、伊織はここでミュゲイラたちを失うことを良しとはしないだろう。
静夏は眉根を寄せながら連絡用魔石で伝えられる限りの情報を拡散させながら踵を返し、ミュゲイラの元へと走り寄ると傍らにしゃがむ。
今も鮮やかなオレンジ色の髪がかかる肌は青白い。
「ミュゲ……」
――シェミリザの言葉はブラフではなかった。
ミュゲイラの心臓は、もう動いていない。





