第907話 蛇の微笑み
単眼の蛇は微笑む。
目をヒトのように細め、悪意を笑みの形に固める。
(待て待て待て……)
瀕死だというのに余裕ぶった様子にミュゲイラは総毛立つのを感じたが、それでも蛇の尾から手を放すことはなかった。
指揮していたシエルギータが吹き飛ばされても、残った兵士と魔導師はそれぞれの判断で動きながら新たな指揮官を立てて戦闘を続行するように訓練されている。
ただしシエルギータは王族、しかも第二王子であるため相応の動揺はあるだろう。
助けに向かうべきか、目前の単眼の蛇への対処を優先すべきか。
二つの選択肢をこの場にいる各人が選ぶことになる。
その判断に加えて味方の状況の確認にかかる時間は微々たるものとはいえ必要だ。
つまり、仲間たちにとって隙となるタイミングというわけである。
(その一瞬を突かせないためにもあたしはこのまま動かない方がいい。が……)
足は逃げようとしていた。
恐怖からではない。ここから離れなければ単眼の蛇が確実に自分を狙うだろうと空気から感じ取った結果だ。
シエルギータたちによる猛攻で狙いが逸らされていたが、今の単眼の蛇は冷静な様子でミュゲイラを見ていた。その上で笑っている。焼け焦げてしまい血走った白目など気にしていない様子で。
先ほどまでとは異なる不気味さを伴いながら、単眼の蛇は影の針を作り出す。
それは魔力任せに大量に作り出したものではなく、計算された本数――そう、この場にいる人数分の本数が用意されていた。
「……ッ防御を優先しろ! アイツ、さっきまでとなんか違うぞ!」
刹那、周囲へ飛び散った影の針が兵士や魔導師たちを貫いていく。
反応できた一部は剣で針を受け止め、得意属性の魔法で防御を試みたが、それでも強度不足で貫通し傷を負う者が多かった。
ミュゲイラも息を止めるなり全身の筋肉を固めて身を低くし、蛇の体自体を盾にしたが、それでも腕を回して制止している以上は限界がある。
「……!」
そこへ風の障壁が展開された。
自身の防御より要であるミュゲイラの防御を優先した魔導師のものだ。
強度が足りずに影の針は障壁を貫いたが、幸運にも針先が僅かに逸れてミュゲイラの頭部ではなく肩に深く刺さる。
――貫通せずに止まった。
痛みより先にそう認識したミュゲイラは突き出た影の針を掴むと放り投げる。
細い針だというのに引き抜くだけで相当の力が必要だった。
影の針は空中を舞いながら見る見るうちに形を変えると、針状の根をぞろりと生やして広がる。あんなものが体内で生えていればひとたまりもなかっただろう。
そこで単眼の蛇が激しく動いた。
ミュゲイラは力を緩めなかったが、針の刺さった小さな小さな傷が燃えるような熱さと痛みを発し、指先の感覚を一瞬忘れさせる。
その隙にするりと抜け出した単眼の蛇はミュゲイラの脇腹へ削岩機のような一撃を叩き込んだ。
「ッぁ、ぐ!?」
踏ん張る間もなく吹き飛ばされたミュゲイラを一瞥し、単眼の蛇は全身の筋肉を収縮させる。
ただ、それは追い打ちのためではないとその場で生き永らえた全員が理解した頃には――単眼の蛇は垂直に飛び、天高くを舞いながら戦場の様子を窺っていたハゲタカ型魔獣と接触した。
それも群れの、である。
真上にいた彼らに連合軍が気がつかなかったのは緊迫した状況と、ハゲタカ型魔獣たちが積極的に戦闘に参加するのではなく『漁夫の利を狙う』性質を持っていたがためにステルス性が高かったからだ。
今のミッケルバードの環境に合わせたかのように光を反射しない真っ黒な羽、くちばし、目、足。
羽ばたく音は最小限で風を上手く使い旋回に留める。
群れだろうが声も出さない。
単眼の蛇が他の魔獣を吸収できると知っている以上、接近には細心の注意を払っていたが万全を期すことを状況が許さなかった。
ハゲタカ型魔獣は突如自分たちに突っ込んできた単眼の蛇に慌てふためいたが、触れた先から取り込まれて姿を消す。
単眼の蛇はあっという間に傷を癒すと空中でくるりと回転し、落下する前に背中を突き破って現れた影の翼で滑空した。
「っげほ! ごほッ……! ……っだめだ、アイツを止めないと……!」
単眼の蛇は回復と強化を優先し、ミュゲイラたちを無視して縦横無尽に動き回りながら魔獣を取り込み続けている。
ハゲタカ型魔獣の次は離れた位置にいたリスと猿を混ぜたような魔獣を。
その次は土の中に潜んでいたモグラの手を持つネコの魔獣を的確に狙って我が身に迎え入れる。
それを繰り返し巨大化した単眼の蛇にミュゲイラは駆け寄ると、血を吐きながら跳躍し横っ面を蹴り飛ばした。
着地する前に単眼の蛇が生み出した石の礫がミュゲイラの体を打つ。
穴だらけになった地面に落ちたミュゲイラはそれでも立ち上がると再び跳躍し、片腕で影の翼の根本を締め上げた。
「好き勝手してんじゃねーよ!」
ぼきん! と片翼がへし折れる音が周囲に響いた。
影の翼は針や大鎌と同じく物理的に存在しているため、腕力で傷つけることが可能だ。しかし魔力が尽きない限り修復も容易だった。
一瞬ぐらついた単眼の蛇だったが、再度羽ばたくと体を高速回転させミュゲイラを振り落とす。
落下したミュゲイラは受け身を取ったものの、単眼の蛇が間近まで迫り大きく口を開いていた。
(ヤバいなこれ)
巨大化した口の大きさはミュゲイラどころかオルガインすら丸呑みにできると思わせるほどだった。
だが今までヒトを無視して強化に集中していたところを自分に引きつけられるなら良い、とミュゲイラは間一髪のところで避けると鼻先を蹴り飛ばす。
後退しながら二撃、三撃目を蹴り込み、回避し、時に受け流しながらミュゲイラはひとりで単眼の蛇を相手に立ち回った。
(頼む、あたしの筋肉……もう少し持ち堪えてくれ……!)
援軍が来れば数で押せるかもしれない。
肉体はすでに限界だったが、この場で満足に動けるのはミュゲイラのみだ。
自分がなんとかするしかない、と両目で敵を見据える。
(あたしが、あたしが頑張らないと――)
視界の端で石の礫がふわりと飛び、そして見当違いの方向へと飛び出した。
礫の向かう先には倒れた兵士たちがいる。
あの場違いなふわふわとした動きはわざとミュゲイラに見せるためだったのだ。
そうわかっていたものの、礫の威力と痛みを知っているミュゲイラは僅かに動揺した。あんなものを食らえば防御できない兵士たちは簡単に潰れてしまうだろう。
単眼の蛇は己の頭を鈍器のように振るう。
鋼鉄よりも硬い鱗に覆われた重い頭だ。
腕が使い物にならず防御の薄い左側から食い込んだそれをミュゲイラは受け止めようとしたが、その時にはすでに両足が浮いてしまっていた。
「リ……」
妹と静夏の姿が脳裏を過ぎる。
冷ややかな感覚と共に左半身が麻痺するのを感じながら、ミュゲイラはいつの間にか空を見ていることに気がつき――真っ暗な空に飛び散った銀色の欠片に手を伸ばしたが、それが指先に触れることはなかった。





