第906話 世界を侵す、世界の膿 【★】
単眼の蛇は瞳の中で光を屈折させ、ヒトと同じく世界を立体的に捉えていた。
それだけでなく魔力の動きやオーラ、魂の煌めきも常に目で追い観測ができる。
蛇由来のピット器官による赤外線の感知も可能であり、それらを組み合わせ幅広く獲物の動きを見ていたが――それでもミュゲイラの接近を許したのは、シエルギータの巧みな妨害があったからだ。
本能で反射的に反応する獣のような生き物ならば即座に対処できたかもしれない。
しかしどこかヒトのような、それでいて薄ぼんやりとした意識が浮上し始め、それが動揺や畏縮を生み出し反応の切れ味を鈍らせていた。
単眼の蛇は前へ進めないことに混乱する。
そして原因を探ろうと動きかけたところで、シエルギータと魔導師たちによる頭部への総攻撃を受けて仰天した。
そう、あまりにもヒトのように驚いたのだ。
魔獣としての本能と世界を侵す欲求に塗り固められていたところへ亀裂が入り、思考する自我と共に本来ならまろび出るはずのない、ツギハギだらけの記憶が頭の中に溢れた。
『にな……にり、みけき……? ……!?』
思わず口にした言葉は壊れており、単眼の蛇はパニックに陥る。
何度やっても思った言葉にならない。
それでも『自分』ではきちんと話したつもりになっている。
慌てふためきながら、それでも単眼の蛇は過去の記憶を拾い集めようと必死に頭の中を整理しようとするが、どうしても上手く繋がらず名前すらわからない。
まるで思い出せない夢の内容のようだった。
混乱が混乱を呼び、それによりミュゲイラが単眼の蛇を抑えていられる時間は飛躍的に延びた。
本来ならシエルギータたちが上手く立ち回らなくては体を曲げた単眼の蛇に狙われ、攻撃を受けながら耐え続けることになっていたのだ。
このままではまずい、と単眼の蛇も考える。
しかしなにが最善の行動かわからない。
なにをしたかったのかもわからない。
突然おかしな体になり、戦場に放り込まれたような恐ろしい気分だ。
――いや、それは本当のことなのではないだろうか。
そう単眼の蛇は全身に悪寒が走ったものの、しかしよく思い出してみればそれより前からおかしな状況に置かれていた気がする。そんな閃きにも似た感覚が頭の中を走った時、耳元で声が聞こえた。
「その記憶、とても気になるわ。あなたは誰?」
耳元には誰もいない。
耳の内側から直接語り掛けているのではないか、と単眼の蛇は直感する。
甘く、優しく、どこかうっとりとしたような少女の声は耳の中をゆっくりと這いずり回るように訊ねた。
「――そう、あなたは世界の穴の向こう側で溶け合い渦巻いていたのね。意思の鏡。人々の欲、感情、望みの坩堝。でもかわいそうに、あなたのそれは魂の紛い物よ」
『ほてはき、ひなに……』
「ああ、よくわかった……兄弟姉妹であろうが、分身であろうが、腐りかけたものが隣にあればこういうことにもなるわ。なにをしても回避出来ないわけよ」
蕩ける声はそこで初めて怒気を孕んだ声音で言う。
「本当に嫌になる」
声の主が頭の中で体を回転させて踊った。
恐らく、何者かが物理的にそこにいるわけではない。
細胞のひとつひとつが己と溶け合い、もはや自分自身とも呼べる状態だ。だというのに単眼の蛇は冷たい水を浴びせられたような気分になる。
異物を頭の中に直接入れられたかのようだった。
もしくは、そう、頭の中で別の生き物を孕んだような異様な感覚である。
少女は頭の中で踊り、体を擦って這いずり、しきりに「あなたは可哀想な子ね」と言葉で内側を撫でつける。
彼女の方がよっぽど蛇らしい。
そう感じた瞬間、単眼の蛇は頭蓋骨の内側に手の平と頬を寄せられた、と鮮明に感じ取った。
そのまま先ほどとは異なり、柔らかく撫でられる。
まるで幼子をあやすように。
「ようやくわかってきたわ。……ねえ、あなた。こんな体で痛めつけられて、望んでいたことも叶わず腐りゆく故郷にも帰れないなんて――地獄でしょう?」
『え……う、すゆ』
「あなたはただの膿」
『……』
「世界を侵す、世界の膿。もう思ったままの言葉も発せないほど壊れている」
魔獣は全部そうなんでしょう、と少女はほんの僅かだけ同情を声に乗せて呟いた。
単眼の蛇には彼女がなにを言っているのかわからない。
理解ができない。
しかし理解をしたくないから理解できないのだ、という直感もあった。
それはつまり、本当なら何を言わんとしているかわかっているということである。
思わず動きを止めた単眼の蛇にめらめらと熱い炎が襲い掛かる。
無意識に使っていた魔法も今やどうやって展開していたかわからず、単眼の蛇はされるがままになりながら頭を振ったが、ついに丈夫さが取り柄の鱗に亀裂が走った。
「ね、ここに未練はないはずよ」
『……!』
「あなたはもう一度静かに眠りなさいな。あとは――」
わたしに全部くれればいいわ。
痛みと絶望もすべて残さず引き取ってあげる。
そう少女の声が頭蓋に響いたのと、大きく開いた口内を赤々とした炎が蹂躙したのは同時だった。
***
「た、倒したのか……?」
救援が来るまでの足止めをするだけのつもりだったが、口内を焼かれ倒れた単眼の蛇を見てシエルギータは目を瞬かせた。
それは単眼の蛇の尻尾を押さえていたミュゲイラも同じで、一体なにが起こったんだという表情を浮かべている。
しかしすぐに我に返ると声を張り上げて言った。
「ちゃんと死んだか確認してくれ!」
尻尾から抵抗は返ってこない。
ひたすら重たい肉の塊を抱えているような感覚だ。
しかし蛇は元から体温が低いため、温もりの有無で生死を判断することはできず、鼓動も然りだった。
まだ手を離すには早い。そう感じたミュゲイラは自分からは動かずそう指示する。
(直撃したのは見えた。けどこの胸騒ぎはなんだ……?)
攻撃が直撃したのも途中から単眼の蛇の動きが鈍ったからだ。
それは突然のことで、時折なにかをうわ言のように呟いていた。
魔獣の言葉ではなにを言っているのかはわからなかったが、酷く混乱しているような様子だったのをミュゲイラは思い返す。
あの大きすぎる隙が無ければここまで上手くはいかなかっただろう。
(そりゃこれまでも変な動きする魔獣はいたけど、こいつは特におかしかった。一体あれは――)
刹那、叫び声が響いたかと思うと凄まじい勢いで人間が放り投げられた。
ふたりだ。
それは単眼の蛇の死亡確認をしようとしていた魔導師のひとりとシエルギータで、彼らは土が剥き出しの地面をバウンドしながら遠くまで転がっていく。
「シエルギータ!?」
油断はしていなかったはずだ。
シエルギータはそこまで抜けた男ではない。
あるとすれば単眼の蛇がそれを上回る素早さで動いたという可能性だ。
「突然止まってボコられたかと思えば、急にキレのある動きをしたり……マジなんなんだよお前……!」
単眼の蛇は頭をもたげて煙をふっと吐き出す。
それは蛇自身が焼けた煙だった。
シェミリザ(イラスト:縁代まと)
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