第885話 かつては名前のなかった猫
熊よりも大きなタランチュラが戦場を駆け回っている。
その頭には人間の耳が付いており、滑稽極まる容姿をしていたが、音だけで敵の位置を判別し振り向きもせず反撃する様子にヘルベールは辟易としていた。
空にはプテラノドンに似た魔獣が飛び交っており、タランチュラが攪乱しながら足先から出した糸で動きを鈍らせた者を率先して襲っている。
互いに連携しているのがよくわかった。
「虫キメラが居れば攪乱し返せたが……」
あれは本部の施設で使い切った。
今のヘルベールが操れるのは巨大な白ネコだけである。
戦力には心許ないか、と考えたところでヘルベールは眉根を寄せた。
未だにキメラを物扱いしてしまう。ナレーフカの望みを叶えて罪を償うのなら、まずこの認識を改めなくてはならないだろう。
その第一歩として、作戦決行前にナレーフカが白ネコに対してあることを行なったのだ。
ヘルベールは自らが跨った白ネコの背中をトンッと叩いて言う。
「ニーヴェオ、蜘蛛から優先して狙え」
名付けである。
ワイバーンのように名付け行為に儀式めいた意味はないが、名前を与えることでキメラを個として見ることができるとナレーフカは言っていた。
彼女は亀のキメラ一匹一匹にも名前を付け、体の特徴と共にノートに纏めてある。
ヘルベールは記憶力が良いため、ノートに取らずとも各キメラの名前と特徴はすでに頭の中に入っていた。
この白ネコはニーヴェオ。
他国の言葉で『白』を示す名だ。
ヘルベールも名前の有無でそこまで大きな変化があるとは考えていなかったが、こうして呼ぶたび今までとは異なる感情が僅かながら湧いていた。
これを大切に育てていけば、いつか娘の望む父親像に近づけるのではないか。そうヘルベールは己の手を見下ろす。
「……」
取り返しのつかないほど黒く染まった手だが、未来のことを考えるなら少しでも最良の状態に近づきたい。そのための努力を惜しみたくない、諦めたくないとヘルベールは思う。
白ネコ、ニーヴェオは高く跳び上がるとタランチュラに向かって前足を揃えて落下した。
飛び掛かられたタランチュラは素早く反応し迎撃しようと動いたが、彼らよりも巨大なニーヴェオの重さだけでいとも簡単に潰れてしまう。
モチーフとなっている自然界のタランチュラも存外体が脆く、その弱点をも受け継いでしまっているようだった。
「蜘蛛の糸は無理に切ろうとせず、温度を上げた火属性の魔法で焼き切れ!」
蜘蛛の糸は耐火性に優れるが、数千度にまで高めた熱なら耐えきれない。
魔獣産の糸は更に強い熱に耐えられる可能性はあったが、先ほど乱戦中に幾人かの魔導師が火属性の魔法を使っており、その際の糸の損傷から効果があるとヘルベールは判断した。
着地したニーヴェオをタランチュラたちが取り囲む。
ヘルベールは四方八方から降り注ぐ糸の隙間から包囲網の外側を見た。
――仲間たちの居ない空間がある。素早くそれを確認すると上着の内側から丸い果実のような形をしたものを取り出した。
ヘルベール以外にはまさしく鉄色の果実に見えただろう。
しかしそれはナレッジメカニクスの技術で作られた手榴弾だった。
ヘルベールはピンを引き抜くとタランチュラたちの隙間から彼らの後方に向かってそれを投げ込む。
すると爆発と共に高温の爆風が舞い起き、ヘルベールたちを囲っていた一部のタランチュラが尻側から吹き飛ばされた。
くるくると宙を舞うタランチュラの影をくぐって走り出たヘルベールたちは体勢を立て直すが、そこへ土煙を目眩まし代わりにプテラノドンが突っ込んでくる。
「ッく!」
巨大な嘴がヘルベールの真横を掠める。
魔獣たちはニーヴェオを操っているのがヘルベールだと理解しているらしい。
ニーヴェオの背中から落下しかけたヘルベールに向かって二匹のプテラノドンが追い打ちをかける。
直撃するくらいなら自ら地面へ降りるべきだ。
そう判断しヘルベールが飛び降りようとしたところで、二匹のプテラノドンの首が同時に落ちた。首から二秒ほど遅れて胴体が墜落し土埃を舞い上げる。
「っな……!?」
「変な形の鳥だねぇ、けど飛んでる奴を相手にするのは面白いから大歓迎だよ!」
緑色のドレッドヘアーが強風に舞い、身の丈以上のハルバードが唸りを上げて三匹目のプテラノドンの首を落とした。
風の魔法による跳躍という不安定な体勢にも関わらず、的確に急所だけを狙っている。その様子を見つめながらヘルベールは喉を鳴らした。
「お前はたしか」
「ラタナアラートのエトナリカだよ。アンタとはちょっとした因縁があるが――助太刀してあげようじゃないか」
エトナリカは四角い眼鏡を中指で押し上げると快活に笑う。
彼女の故郷であるラタナアラートはナレッジメカニクスの魔獣傀儡化実験のせいで酷い目にあった。姉妹里のリラアミラードなど更に被害が大きい。
そしてラタナアラートに加えてレプターラでもエトナリカの娘、ステラリカが被害を被ったのである。
そんな因縁の数々をエトナリカも理解していた。
それでも二言はないと言わんばかりに笑みを浮かべている。
「言いたいことは一杯あるけど、今することじゃないからね。ホラッ! 追加が来たよ、空はアタシがやるからそっちは地面の虫をなんとかしな!」
「わかった。……ニーヴェオ」
ヘルベールに呼ばれ、すでに己の名前はニーヴェオだと理解している白ネコは大きな声で鳴くと両眼を見開いた。
魅了の力を持つ目である。
魔獣の場合は効果を発揮するか否かは個体差が大きく、タランチュラの魔獣は利きが弱い。しかし隙を作る程度はできる。
ニーヴェオはタランチュラが自分の目に見入っている間に一気に距離を詰め、固く鋭い爪で引っ掛けるようにして殴り飛ばした。極大の猫パンチである。
その様子を見て口笛を吹いたエトナリカは広範囲の回復魔法を展開し前へと出る。
「さぁ、五分間だけ怪我し放題にしといたよ! アンタたちも気張りな!」
騎士団や魔導師たちを鼓舞しながらハルバードを振り回し、一薙ぎで二匹の魔獣を巻き込んだついでに三匹目の脚まで一本掻っ攫って行くその姿に、ぽかんとしていた他の面々も士気を上げ雄叫びと共に魔獣の群れへと向かっていった。
――戦場は未だ乱戦であり、新規に現れた魔獣によっては一匹だけで戦況をひっくり返しかねない不安定な状態である。
しかし、連合軍は人間や異種族など種族に関わらず手を組み確実に前進していた。
空で大きく口を開けていた世界の穴が、ほんの少しずつ閉じていくのを見上げながら。





