第578話 兄弟であることに
伊織が気落ちしていると聞いたが大丈夫じゃないか、というのがセトラスの抱いた感想だった。
訓練の後「疲れたから寝るヨ!」と機械関連の勉強を引き継いで颯爽と去っていったシァシァに代わり、四時間ほど面倒を見ていたのだが――質問があればきちんと訊ね、聞いたことはノートに取り、こちらの言葉を聞き漏らすまいとしっかりと耳を傾け、しかし肩肘張り過ぎず時折笑みを見せる様子は落ち込んでいるようには見えない。
(まあ別に励ます良いプランがあったわけじゃないんでいいんですけど)
そう思いながら伊織のノートを覗き見る。
本文に加えて見出しやまとめも書かれており、特筆すべき部分に下線を引き、時には文字の色を変えてあった。
特にセトラスには絵や図まで描かれているのが好ましく映る。
先に見たことがあるヘルベールたち曰く、教えていないのにこの書き方をしていたため前世の世界で得た癖らしいとのことだ。
「……? 兄さんどうしたの?」
「ああ、いえ、随分綺麗なノートの書き方をするな、と」
「あぁ、学校でも言われたなぁ……でも他にも似たような子は結構居たよ。後から参照しやすいし、何より頭に入りやすいんだ」
僕に合ってるのかも、と伊織は微笑む。
「……イオリは前世では一般市民でしたか」
「うん、一応は」
「豊かな世界だったんですね」
セトラスの言葉に伊織はペンを止めて手元を見た。
「豊か……ではあるけど、欲しいものが手に入るわけじゃなかったかな。いやその、もちろん生活水準が高いのは良いことなんだけど」
「良いことでしょうよ。ああ、けれどまぁ……どんな世界でも何でも手に入るわけじゃない、ということはわかりました」
伊織は何か言いかけたが、それを飲み込むとセトラスの袖を引いた。
「そういえば兄さんは? どんな所に住んでたの? 家族は?」
「……」
無邪気な問いだ。
セトラスの入り込まれたくない部分に躊躇いなく手を伸ばしてくる。
しかし答えたくないと思えないのは何故だろうか。
――セトラスがナレッジメカニクスに入ったのは二十歳の頃だった。
晴れて自由の身である。家族に復讐をしても誰も咎める者はいないはず。
しかしセトラスは縁を切りたい一心で直接復讐に赴くことはなかった。
それでいいと考えていたが、数年ほど経った頃、オルバートたちから今度行なう人体実験用の検体捕獲地の候補を聞いて驚いたのだ。
その中に故郷近くの街があった。
かなり大規模な捕獲計画であり、それなりの戦闘行為も想定されたもの。
その時セトラスは提案したのだ。
ここよりこっちの街にしませんか、と。
それを聞いたオルバートは不思議そうな顔をしていた。
「おや? そこはたしかセトラスの――」
「いいんです」
「それは復讐かい?」
「まあそんなところです」
「直接手を下さなくても?」
オルバートから突っ込んで訊ねてくるのは珍しいことだったが、後から「昔、復讐を躊躇って後日後悔しモチベーションが著しく下がった構成員がいたから」だと知った。
きっとオルバートは『一度きりしかない機会だから』ということをわかっていたのだろう。
セトラスのモチベーションが下がり、貢献度が下がることを危惧しているのであって個人への気遣いではない。そう知っても特に傷つかなかったのを覚えている。
ただ、質問そのものには心の触れられたくない部分を撫でられたような気分になり、セトラスはそれを拭い取るために言語化した。
「あの人たちへ復讐する距離感なんて、これくらいで丁度いいんですよ」
――そんな記憶を思い出し、目を伏せたセトラスは「面白い話はありませんよ」と無意識に伊織の肩を軽く叩いた。
とても気安い動作にお互いきょとんとし、セトラスが先に頬を掻く。
そして気落ちしていないように見えても何を考えているかはわからない。言うだけ言っておくか、と口を開いた。
「そうだ、イオリ。一応言っておきますけどね」
「な、なに?」
「私に元に戻る前の記憶はありますよ。あなたとどう接していたかも。明言するタイミングを逃してましたけど」
「……ほ、本当!?」
もちろんそんな無駄な嘘をつく気はない。
などという言い方はせず、セトラスは「もちろん」と頷いてから机の引き出しから小さな貝殻を取り出した。
「海で見つけました。本当はもっと大きなものがあったんですけど、ちょっと邪魔が入って壊れてしまいましてね。……精神年齢の低い私が、イオリにあげようと考えていたものです」
セトラスはそれを伊織の手に握らせる。
「それを今あなたにあげる意味、わかりますか」
「それ、は……」
「兄弟を得たと感じた記憶に偽りはないし、……まぁ今もそのままで不都合はない、ということです」
自分らしくないことを言った。
それはわかるが、ここにいるのは自分と伊織だけだ。なら今くらいはいいかという気分になる。
伊織は目を瞬かせた後、嬉しそうに笑うと貝殻をぎゅっと、しかし割れないよう大切に握りしめた。
本物の弟が一度も見せたことのない顔だ。
なら、過去にそんなものがどうなったかなんて今の弟が知る必要はない。
ただ、もしまた同じことを問われたら母との楽しい思い出だけは伝えてあげてもいいかもしれないなと。
セトラスは再び自分らしくないことを考えながら、今度は自ら手を伸ばして伊織の背中を撫でた。





