第576話 響く叫び声、轟く筋肉の波動 【☆】
この世界には様々な神がいると言われている。
しかし一般人、それどころか一部を除く魔導師でさえ神は神話上のものであるという認識だった。
宗教的観点から「居る」とされていても実際に目にしたと触れ回る者は少なく、基本的に住む世界が異なる高位の存在として扱われている。
それが目の前に顕現していた。
しかも最高位に近しい筋肉の神である。
だが見た目は完全にムキムキのペンギンであった。
「……あの、三十分経っても混乱が収まらないんですが」
「一時間だ、モスターシェ」
「悪化する方面の訂正ですねマッシヴ様!」
ぷるぷると震えながらモスターシェはこの一時間のことを振り返った。
再会を喜んだ師弟は「立ち話も何だから」という普通極まる理由で場所を移し、どうやら筋肉の神――オルガイン手作りらしい巨大かまくらに案内された。さっきまでも筋肉の発する何かしらの熱により暖かかったが、ここは更に寒さと無縁である。要するにモスターシェが震えているのは寒さが理由ではない。
そこから静夏とオルガインが思い出話や近況報告に花を咲かせている間、モスターシェはかまくらの中にいた筋肉ペンギンの雛たちにもみくちゃにされていた。
否、恐らく雛たちはおしくらまんじゅう的なものに勤しんでいるのだろう。
しかしふわふわとした羽毛の内側にはゴリッとした筋肉が潜んでいるため、当たり所が悪いと痛い。脱穀されている気分だ。
そうしてようやく先ほどの言葉を発したのだが――静夏たちの話を傍から聞いていても、未だにこの赤い筋肉ペンギンが筋肉の神なのかモスターシェには確信が持てなかった。
しかし静夏は嘘を言わない。
そして彼女は筋肉の神の加護を受けし聖女マッシヴ様だ。
筋肉信仰を身近に持つ民族ならこれだけで信じるに値する。モスターシェも悪意や疑心感から疑っているのではなく単純になかなか飲み込めないでいるだけだ。
「モスターシェといったか」
「は、はい」
駆け巡る様々な思いに眩暈を感じていると、オルガインにそう呼ばれてモスターシェは慌てて返事をした。
「短期間でよくそこまで鍛え抜いた。元は小柄な青年と聞いて目を瞠ったぞ」
「あ、い、いえ、そんな……ッハ!」
どくんっと筋肉が鳴動する。これは――そう、筋肉の頂点に立つ筋肉の神からの賛辞に自分の筋肉が喜んでいるのだ。それどころかむせび泣いている。
モスターシェはそれを感じ取り、そして彼はまさしく筋肉の神なのだと己の筋肉で理解した。ミカテラがここにいたら「正気に戻れ!」と頬を引っ叩いていたところである。
オルガインはペンギンの羽で器用に握手した。
「その努力を讃えよう」
「ああああ、ありがとうございますオルガイン様……!」
「オルガでよい」
オルガインは握手したままモスターシェをじっと見る。そして慈愛に満ちた目をして言った。
「私もお前の魔法を解くため、全力で戦おう」
「……ほ、へ?」
「群れのリーダーが全力で戦えば魔法も必ずや解けよう」
それはそうだけど、とモスターシェは目を点にする。筋肉の神と戦うという突然の課題に我に返った。
しかしそもそも筋肉ペンギンのリーダーと戦うためにここまで来たのである。そしてそのリーダーが筋肉の神だったのなら導き出される答えは一つだけだ。それでも言葉にされるまでいまいち危機感が湧かなかったのは現実逃避の賜物だろう。
モスターシェは助けを求めるように静夏を見る。
「自信を持て、モスターシェ。勝てるまで私もコーチとしてここに住み込み、お前のサポートをしよう」
「……」
「オリヴィアの言う通りだ。お前の筋肉はすでに目覚めている。きっと大丈夫だ」
「……」
――やっぱり新手の地獄だ、という叫びが遠いベレリヤまで届き、ミカテラがコップを割ったかどうかは定かではない。
***
宿の部屋にて。
居眠りをしていたミュゲイラがよだれを垂らしつつも「ハッ!?」と跳ね起きたのを見て、紙にペンを走らせていたヨルシャミは仰天しインク壺を零しかけた。
「ななななんなのだ突然! 野生動物かお前は!」
「今どこかでスゲェ筋肉の波動を感じた気がする……!」
「野生動物ではない何かだな……!?」
ミュゲイラはしばらくきょろきょろした後、でも近くじゃないなと落ち着きを取り戻す。
そしてヨルシャミの手元を見て首を傾げた。
「日記か何かかと思ったけど、なんか難しいこと書いてんだな」
「ああ、イオリの洗脳魔法を解く手立てがないかと模索していてな。頭の中だけでも纏められるが、夢路魔法の世界にも持っていくなら一度書き起こした方が鮮明になるのだ」
まあ微々たる差だが、とヨルシャミはペンを置く。
「なるほど。……イオリ、今頃何してるんだろ。早く姉御を安心させてやりたいな」
「うむ、……王都からの報告を見るに、もしかすると我々の方にあちらから現れる可能性もある。その時に洗脳解除魔法が出来ていれば、と思ったのだが……」
「難しそうなのか」
「シェミリザがどのような構造の魔法を放ったのかよくわからぬ。病を知らずに特効薬を作ろうとしているも同然だ」
ヨルシャミは縛っていた髪の毛を解くと大きく伸びをした。そろそろ作業を切り上げるらしい。
ミュゲイラは腕を組んで唸りつつ思考を回す。
「うーん……そうだ! こっちからも洗脳して上書きするっていうのはどうだ?」
「ん、む」
「これなら相手より高度な洗脳魔法を作るってわかりやすい目標になるし……って……ああ、そうか」
頬を掻きつつミュゲイラはヨルシャミの頭をぽんぽんと叩いた。
「ヤなんだな」
「……うむ。イオリは生まれ変わった際に「世界の神に何らかの思想を植え付けられたのではないか」と悩んでいた。そしてそれを吹っ切って自分の定めた道を行こうとしたところで、ナレッジメカニクスに洗脳されたのだ。――それを更に洗脳するのはあんまりにも、な」
出来ることなら影響を受けた部分だけ打ち消し、洗脳魔法を受ける前の状態に戻してやりたい。
それがヨルシャミの望みだった。
しかし人間の精神は不可逆であることが多い。洗脳されている間に詰んだ経験も伊織にとっては自分自身のものであり、完全に元に戻すならその期間の記憶を消すことになってしまう。
それもまた酷なことなのではないかとヨルシャミは思った。
故にある程度有用な案を思いついても却下することになり、伊織の洗脳を解く研究はなかなか進まなかったのだ。
ミュゲイラは眉を下げると「変なこと言ってゴメンゴメン」と笑みを浮かべた。
「ヨルシャミ、お前ほんっとイオリが好きなんだなー」
「いいい今頃何だ……! 好きに決まっているだろう……!」
「真っ赤になりながらも肯定はするのな」
なにやらにこにこしているミュゲイラにヨルシャミは真っ赤になった耳をバタつかせ、それこそ変なことだとぶつぶつ言いながらベッドに潜り込む。
そう、好きなのだ。
奪われようが、どれだけ離れようがこの気持ちは変わらない。
洗脳中に伊織が詰んだ経験を消したくないと思ったとしても、それはこれまでの伊織をナレッジメカニクスに奪わせていいということにはならないのだ。
絶対に取り返してみせる。
布団を被ったままそう決意を新たにするヨルシャミを見守りながら、ミュゲイラは彼が消し忘れたランプをそっと消した。
三枚目のインパクト…!
芳丸さん(@yoshimaru2327)が描いてくださったヨルシャミ、聖女一行、ウサウミウシです。
いつもありがとうございます!!(掲載許可有)
※イラストがリンクのみの場合は左上の「表示調整」から挿絵を表示するにチェックを入れると見えるようになります(みてみんメンテ時を除く)





