第420話 父さんの笑み
ぱち、と目覚めた伊織は静かな部屋にぎょっとした。
――いや、もう何日もこうして静かな部屋で目覚めているというのに何を驚くことがあるのか。
そう思うものの起床すると何度かに一度はこうなるのだ。
まるでちっちゃい子みたいだ、としょげつつも着替えて廊下に出るとオルバートが歩いてくるのが見えた。
「父さん、おはよう」
「おはよう。そろそろ起きる頃かと思って来てみたんだけれど……どうしたんだい、浮かない顔だね」
顔に出てた? と伊織は自分の目鼻に触れる。
「起きたら部屋に誰もいなくてびっくりしたんだ……それがちっちゃい子みたいでさ……」
「……伊織は誰もいない部屋が苦手かい?」
「うん、そうみたい」
「僕もだ」
父さんも? と伊織は目をぱちくりさせてオルバートを見た。むしろ静かで落ち着いている方が好きなように思えたのだ。
しかし嘘をついている様子もなくオルバートは頷く。
「理由はよくわからないんだが、もう随分と前からね。誰もいない静まり返った部屋を恐ろしく感じることがあるんだ。……ああ、もちろん賑やかなのが特別好きというわけではないよ」
「そっか、父さんと同じかぁ……、……」
ぐっと渋い顔をした伊織にオルバートは首を傾げる。
「どうしたんだい」
「んー……同じでもびっくりするのはやっぱ嫌だ……!」
伊織は真剣に悩む。
その様子にオルバートは「はは」と単音を二つ出しただけのような笑い方をし――しかし普段より表情を和らげて言った。
「なら誰かと一緒に寝るといい」
「一緒に?」
「僕でもいいし他の人でもいいし……日替わりっていうのも気分転換になって楽しいかもしれないね。まあ夜に寝ない人もいるが」
自身もそういう人種だが、見事に棚上げしつつオルバートはそう提案する。
伊織は「楽しそう!」と何度も頷いた。
「よし、じゃあ今日も朝食をとってから勉強だ。伊織には色々と可能性があって教える方も面白い」
「わかった! 今日はなんの勉強?」
「魔法の属性特定とちょっとした検査をしたいってシェミリザが言っていたよ」
「属性? 僕は風だけど」
「おや」
すでに特定済みだったか、とオルバートは伊織を見る。
とするとこれは洗脳前の記憶だろうが、伊織は自分のことなんだから知ってて当たり前という顔をしており違和感はないらしい。
オルバートは深追いせず、それなら時間を節約できるねと頷いた。
「……アレ? オルバは?」
ナレッジメカニクスの幹部たちは普段こうして食堂に集まって栄養補給――食事をとったりはしない。たまたま気が向くか報告する事柄があり食事の時間が重なった時に行なうくらいだ。
しかし伊織が来てからは彼が揃って食事をすることを好んでいることもあり、少なくとも朝はこうして集まっていた。
オルバートも廊下で見かけたので少し前にここへ向かったはずだが見当たらなかったのである。
「聖女のむす……イオリを迎えに行った」
「はァ!? 何ソレ、オルバが自主的に?」
ヘルベールからの情報にシァシァは目を剥く。
オルバートはそんなことをするタイプではないはず。しかしヘルベールがわざわざ嘘をつく意味がない。
オルバートがどこかに利点を見出すような事柄があったのだろうか。
そう考えていると噂の二人が帰ってきた。
シァシァは質問したことなど伏せて素知らぬ顔でパンを皿にのせる。
今日の朝食はヘルベールが担当したのかパンと目玉焼きとソーセージにスープという至ってシンプルなラインナップだった。
「シェミリザもまだなんだね」
「今日は準備で少し遅れると伝言を預かっております!」
オルバートの問いにパトレアが敬礼しつつ答える。
「ああ、今日の伊織の勉強担当は彼女だからか。では先に食べておこう」
「シェミリザ姉さん来ないの?」
「多分途中で来るから心配しなくていいよ」
オルバートにそう言われ伊織はホッとした顔をする。
「……」
シァシァはやはりオルバートが随分と伊織に甘いなと感じた。
子供の方が操りやすい、ということはこれもその一環なのだろうか。
呼び名及び家族ごっこは完全に棚からぼた餅だが、これ幸いと利用しているのかもしれない。
オルバートが他人のために動く時はかなり先の未来も見据えてその人に価値があった時。
心配し労いの言葉をかけている時も、その実『技術の替えがいないから心配だ』『戦闘力に期待している』『今の実験に支障が出たら困るな』といった理由からであり、単純に相手のことをおもんばかっていることはあまりない。――完全にないのではないか、とシァシァは長年思っている。
そう考えていると伊織が「そうだ! 父さんにコーヒー淹れてあげるよ!」と立ち上がった。
(こないだアドバイスしたからか)
シァシァはソーセージを齧りつつキッチンフロアに向かう伊織を見送る。
「……甲斐甲斐しい子供だ」
「そだネ」
隣に座るヘルベールに同意しながらシァシァは薄目を開けた。
不死鳥は自身の状態を地獄のように感じ、死にたいと願った。シァシァはそれを精神だけ単純明快な獣に戻し、不要な恐怖を感じなくて済むようにした。
今の伊織も見方を変えれば地獄ではないか。
前の伊織が見たらどう思うのだろう。
もしも希望も何も捨て去るようなことがあれば、今の彼に再び催眠魔法をかける選択肢も――立場上難しいが、無い選択肢ではないとつい思ってしまう。
(……ム、またこういうコト考えてる)
自省したところだというのに節操がない、とシァシァは頭を振った。
「いやァ、それにしてもこのソーセージ美味しいネ! 手作り?」
「実験用に外側だけ必要だった豚から作った」
「わァ……」
気分転換に会話でもしようかと思ったが存外とんでもない話題だったようだ。
「エ、じゃあ詰まってる肉は実験後のヤツ?」
「冷凍保存してあった別物だ。なんだ、意外と気にする――」
「父さん! できたできた!」
カップ片手に駆けてきた伊織。その姿にパトレア以外の全員が慌てた。転倒した時の大惨事が目に見える。
しかし伊織は無事にテーブルまで辿り着き、コーヒーがなみなみと入ったカップを置くとオルバートの方にちょんちょんと押した。
「はいどうぞ!」
「ありがとう、伊織。よくできたね」
オルバートは伊織をよしよしと撫でる。
淹れ方はパソコンの資料で見たから完璧だと伊織は得意げに言った。各部屋のパソコンにはナレッジメカニクス専用のネットワークを使い書類や書物を電子化したものにアクセスできるようになっている。なお魔法による防腐処理をした紙媒体でも保管済みだ。
教えてないのに普通に使いこなしているのは前世の世界にもあったからだろうか。
「美味しい?」
「ああ、淹れるのが上手いね。上出来だ」
「やった! ……」
じっとカップを見る伊織にオルバートは首を傾げ、そして合点がいったようにカップを伊織に寄せた。
「飲んでみたいのかい?」
「……!」
「伊織の口には合わないと思うけれど……よし、一口試してごらん」
オルバートの言葉に伊織は満面の笑みを浮かべ、コーヒーをふーふー吹いてから口に含む。
そして金の目をまん丸にしたかと思うと口を半開きにして「んげ」と妙な声を出した。
その瞬間。
「――ははは! ……っふふ、やっぱり口に合わなかったね」
オルバートが声を出して笑った。
目を細めて口角を上げ、そのくせ緩んだ表情筋の――ただの楽しげな笑顔。顔半分を隠す仮面がそれに恐ろしいほど似合わない。
「……」
シァシァは茶化すこともできずに言葉を失う。
これも伊織を利用するための下準備の一環なのかどうか、シァシァにはわからなかった。





