第388話 伊織の甘さと覚悟 【★】
「シェミリザ?」
思わぬ名前を聞いてニルヴァーレはそうオウム返しに口にしたが、ローズライカは取り乱した様子で顔を掻きむしると熊ともドラゴンともつかない咆哮を発した。それは叫び声でもあった。
完全に我を失っているわけではないが、胡乱な頭がひとつの大きな感情に掻き混ぜられている。
嫌だ嫌だと口にしながらローズライカが周囲に作り出したのは拳大の氷塊だった。
「氷属性の魔法か!」
ヨルシャミはまるで雹のように降り注ぐそれを一時的な炎の壁で防ぐ。
「ローズライカは水属性と相性が良いが、最も得意としているのは水と近しい氷属性だ。半端に意識を取り戻したからか魔法まで使うようになったらしいね!」
検体を保存しておくのにも活かしてたな、と古い記憶を掘り返しながらニルヴァーレは軽い足取りで雹を避けていく。それらを風による感知と体の動きの補助により最小限の動きで済ませていた。
その様子を片目から覗きながら伊織は先ほどまでのローズライカの様子を反芻する。
このラビリンスにナレッジメカニクスが関わっていた、というのは理解できるが、その構成員があのような状態になっているのは一体どういうことなのだろうか。
あの組織は仲間にまでこんな惨たらしいことをするのか。
伊織は首魁だというオルバートの顔を思い返す。彼がこのことを知っているのか気になった。
しかし問うすべはない。
ひとまずはっきりしているのは、どうやらあのローズライカという人物は不本意な状況に陥っているようだが、相変わらず自分たちの敵であること。
そして『迷宮の探索や仲間との合流を目指すのなら倒さなくてはならない』というのは変わらないことだ。
(でも相手は魔獣じゃなくて……その……ヒトってことになるんだよな)
ヒト、とは人間やエルフ種やドライアド、ドラゴニュートなどすべての知的な種族及び混血可能な種族を指すことが多い。
伊織はそこまで詳しいことは考えず、会話可能な人間に近い種族すべてを指して考えを巡らせていたが、辿り着く先は同じだった。
即ち魔獣・魔物ではなくヒトを殺すことになるのではないか、ということだ。
(……今更僕がそこで戸惑ってどうするんだ。母さんはずっと前から覚悟してたのに)
静夏はニルヴァーレと戦った時に、人間である彼を殺し、その事実を背負う覚悟をしていた。
伊織もこの問題について考えたことはある。
しかしシァシァと戦った時も殺そうとまでは思えず、後に聞いた彼の過去の話にはつい心寄り添わせ、もし今彼を殺せと言われればどうなるか本人にもわからなかった。
身の上を知らないオルバートや、あの時共にいた眼鏡の男性に対してだってそうだ。
伊織の目にはどうしても自分と同じ人間に見えてしまう。
「イオリ、君のそれは優しさでもありヒト以外なら殺せるというエゴでもある」
「ニルヴァーレさん……」
強く考えていたせいでニルヴァーレにも動揺が伝わっていたらしい。
しかしニルヴァーレは深いところまで言及しつつも、その口調は人を責めるものではなかった。
「だが僕はそれが嫌いじゃない。……心配するな、ここは僕らが受け持つよ。それに、ほら」
氷塊の代わりに舞い飛ぶようになった氷柱。
それを避けながらニルヴァーレは視線の先を指さす。
ヨルシャミが前髪の間から鋭い視線をローズライカに送っていた。
「彼はここの誰よりやる気満々だ。それだけ覚悟がある。任せておいて損はない」
「覚悟……でも、ヨルシャミのそれってつまり」
伊織の代わりに手を汚す覚悟。
そして、再度脳移植することで元の肉体に戻るという道を断つということだ。
ヨルシャミの脳移植を担当したナレッジメカニクスの幹部、ローズライカ以外にも近い技能を持つ者はいるかもしれない。しかし一番の近道は確実に断たれる。
ローズライカをどう説得するかなど他の問題も山積みのため、元から成功しない確率も高いとヨルシャミは言いそうではあったが――伊織はどうしても気がかりだった。
しかしヨルシャミの表情を見て思う。
気がかりに感じてしまうことすら、自分の甘さだと。
「……」
「イオリ、もしあのローズライカを生きて捕らえられたとしても、あれにとっては地獄だとは思わないかい」
魔獣の体に脳を移植され、嘆き悲しみながら暴走しているローズライカ。
ニルヴァーレは殺すことも救うことに繋がることだってある、と伊織に言った。
「ま、僕はローズライカがどうなろうが知ったこっちゃないけどね。ナレッジメカニクスで何が起こっているのか、シェミリザがどう関係しているのか、それらがイオリたちに何か影響を与えるのか、そういったことは気になるが」
「……ニルヴァーレさんらしいですね」
ここでようやく伊織は表情から力を抜いた。
「あなたを見習うことは僕にはできないけれど……わかりました、ここは――」
伊織はニルヴァーレを憑依させたまま、自分の意思でローズライカを見据えて言う。
「……僕も手を汚します」
「わかってないじゃないか!?」
伊織はニルヴァーレに首を横に振った。
「ニルヴァーレさんは嫌ならやらなくていい、自分たちに任せていいって言ってくれてるんですよね?」
「そうだよ。すべてを避けては通れないことだろうが、覚悟を決めるのは今じゃなくてもいいんだ」
でも、と伊織はニルヴァーレに言う。
「自分が嫌だからってニルヴァーレさんやヨルシャミたちにやってもらうのは、もっと嫌なことです」
「……」
「その、もしかすると上手くできないかもしれないからサポートはお願いしたいですけど、……やらせてください」
しばしの沈黙の後、ニルヴァーレが小さく息を吐くような気配が伝わってきた。
「――君のことを見くびっていたようだね、ごめんよ。そしてやはり僕の惚れ込んだイオリだ! 君が良しとするならいくらでも手を貸そう!」
「……! ありがとうございます!」
「ヨルシャミは怒るかもしれないけどね」
その時は弁明を頼むよ、と冗談めかして言いながらニルヴァーレは憑依した状態で体の主導権を伊織に委ねる。
「サポート程度に僕も動けるようにしつつイオリに主導権を返そう。好きに動いてごらん」
「わかりました」
サポートはあるものの、見る側だった伊織の立場に今度はニルヴァーレが立つのだ。
伊織は深呼吸すると暴れ回るローズライカを、ヒトを見た。
「……いきます!」
***
反響音が徐々に近づいている。
サルサムたちは薔薇の花が立ち並ぶフロアを進んでいた。
特にトラップなどはないようだが、なんとなくニルヴァーレの庭園を思い出してサルサムは渋面になる。
「音的にこっちっぽいけど、さっきの変な熊じゃないといいなぁ〜……」
ミュゲイラが眉をハの字にして言った。
三人は様子のおかしい熊の魔獣と再遭遇しないように努めていたが、この振動がもし仲間と交戦しているものだとしたら助っ人に向かいたいと満場一致したのだ。
もし相手が熊の魔獣であったとしても、という前提があったが、心配なものは心配なのかミュゲイラは警戒し続けている。
怖いからではない。
サルサムが手負いだからだ。
とはいえサルサム本人はこれを手負いと言われるのは不本意であり、率先して先頭に立っていた。
――なお、しばし前に少々失敗をしてしまい、その際頭に受けたミュゲイラの一撃の方が未だに尾を引いていたが、ひとまずサルサムはこの件に関しては無言を貫いている。
「……? 今なにか音がしました?」
リータが耳を澄ましながら周囲を見る。
ミュゲイラも同じく辺りを見た。
「した。振動とはまた別のやつだな」
「俺はさっぱりだが……どっちの方向だ?」
フォレストエルフの耳の良さに感心しながらサルサムが問うと、二人はまったく同じ方向を指す。
薔薇の木々の隙間。
小さなその隙間に何か光が反射している。
それが眼球に反射した光だとわかったのと、その眼球の持ち主が目にも留まらぬ速さで迫ってきたのは同時だった。
小さな小さな、しかし普通のそれよりはどう見比べても大きな百足。
赤く濡れていた体は乾きつつあり、ぬらりとした光を保ちながらも血液が端からひび割れている。
それは、命からがらバルドたちから逃げてきた大百足の成れの果てだった。
ミュゲイラ(絵:縁代まと)
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