第383話 あの子なら大丈夫
鼻から口へと流れていった鼻血を舐め取り、シェミリザは些か悪くなった顔色で腕を下ろした。その腕も披露してだらりと垂らしたような有様だ。
しかし冷や汗を垂らす表情にはいつもの笑みが戻ってきている。
「この空間で転移が発動する出力を出すと……ふふ、さすがに疲れるわね」
シェミリザはそのまま先ほど現れた一行を見遣った。
随分と頓珍漢な集団に見えるが、恐らくセトラスが幻覚弾を用いて偽りの姿を纏わせた聖女と騎士団員たちだ。
それを確認するとシェミリザはセトラスを呼んだ。
「ここは一旦退きましょう。向こうも手負いとはいえあまりにも多勢に無勢、それにわたしも思っていたより消耗してしまったわ」
「……致し方ないですね」
本来の目的であった大百足は死亡した。
オルバートは不調を重ねて気を失い、シェミリザは仮想世界のルールを捻じ曲げたため著しく消耗している。
そしてセトラスも本調子ではない。
これだけ距離が近ければひとりくらいは的確に撃ち抜けるだろう。
しかし少なくともシェミリザは魔法なしでオルバートを運ぶことが叶わないのだ。
つまりどうやってもセトラスが抱えることになる。
そんな状態で敵を撃つならカメラアイを使うのが手っ取り早いが、再びあの前後不覚な状態になるのはセトラスとしては避けたかった。
(ある意味で当初の目的は達成済み、そしてあちらの戦力もふたり分は削いだ。イレギュラーな事態に見舞われたことを考えれば十分でしょう)
それよりも自分たちのボスを失わないようにしよう。
そう判断し、セトラスはオルバートを抱き上げると手近な通路へと駆けこんだ。
「――待て! ステラたちをどこへやった!?」
ナスカテスラが撤退する三人の背を追う。
しかしその視線の先に双頭のカマキリと黒い影たちが割り込んだ。
「その子たちをお土産として置いていくわね。……これだけは答えてあげる。ふたりがいるのは遠いところよ。指定なしで送ったから詳細はわたしにもわからないわ」
慌ててたからごめんなさいね、と笑ってシェミリザは走り去る。
ナスカテスラは動揺からずり落ちた眼鏡を戻すこともできないまま、召喚獣を撒いて敵を追うか先に召喚獣を片付けるべきかの判断に迷った。
ほんの一瞬だったが、その一瞬の間に簡単には抜けられないほど召喚獣たちが路地への守りを固めてしまう。
迷うなど悪手だった。
ナスカテスラはそう自分の判断の遅さを悔いたが、姪が消えてしまった事実は未だに心を揺さぶっていた。
(落ち着け、きっと大丈夫だ。海に落ちようが密林に落ちようがあの子なら生き延びられる。それにバルドも一緒なんだ)
そもそも人が生存できないほど危険な場所へ飛ばされた可能性もあるが、機転を利かせられる子だから自分でなんとかするはず。
そうナスカテスラは自分に言い聞かせる。
それでも不安は湧いてくるのだ。
ナスカテスラは姪と危険極まる土地へ出掛けることが多くあった。
しかし彼女を失ってもいいだとか、彼女の命を蔑ろにしていいだとか、そんな恐ろしい考えをしたことは一度もない。
危険な場所でも臆さず赴くのは自分が共にいれば大丈夫だという自信故の行動だ。
大切な家族が安否不明になれば――そして、その場に自信の根源でもある『自分』がいなければ不安にもなる。
「ナスカテスラよ、大丈夫だ」
声をかけたのは先ほど現れた女性だった。
負傷している仲間を少女や老人に預け、背中を叩く。その細腕からは想像がつかないほどの力強さにナスカテスラは目を見開いた。
「……もしかして……聖女か?」
「わかってくれるか。他者にも影響を与える幻覚攻撃を敵から受けてしまった」
ということは他のメンバーは騎士団の面々か、とナスカテスラは召喚獣を警戒しながらそちらを見遣る。
わかっていてもやはり謎の集団に見えてしまうが、実際には騎士団員たちなのだと思うと不思議と頼もしく感じた。
「ランイヴァルが負傷した。回復を頼みたいが……まずはこの召喚獣たちをどうにかせねばなるまい」
「その姿で戦えるのか?」
心配ない、と静夏は拳を握る。
「幻覚の効果は徐々に薄れている。姿はまだ戻らないが――この筋肉の感覚、戦うのには申し分ない」
「……」
ナスカテスラは眼鏡の位置を正すと一度だけ深呼吸をした。
再び目を開いた時にはその視線は的確に召喚獣を捉えており、ナスカテスラはここでようやく敵を細部まで観察する。
「――よし、では俺様もなけなしの魔力を引っ張り出して頑張ろう! ああ、そこの彼のための魔力は残しておくから安心するといい!」
「感謝する。では……」
静夏は姿の見えない筋肉を収縮させ、拳を構える。
「……ゆくぞ!」
***
カマキリの召喚獣は双頭同士で連携を取っており、そのため死角というものがほとんど存在しない。
ただし鎌の動く範囲には限界があり、自身の胴にくっつくほど接近されると思うように力を出せなくなるようだった。
その弱点を補助しているのが人型の影たちだ。
攻撃能力はほぼないが、静夏たちにまとわりつくようにして機動性を奪ってくる。
だが強い衝撃を与えれば雲散霧消し、その個体は二度と現れない。
まずは影の数を減らしてからカマキリの対応に当たろうとふたりは目標を定めた。
「ふんッ!」
静夏の拳による一撃は影の頭部を捉える。
そしてめり込んだ拳を起点にぐにゃぐにゃと波打ったかと思えば、影はまるで突風でも吹いたかのように吹き飛ばされて散り散りになった。
本当に筋力のみが先行して戻りつつあるらしい。
か弱げな女性から繰り出される豪速のパンチはかつての筋肉の面影を感じさせ、もしも伊織が見たら卒倒しそうなとんでもない光景を作り出していた。
(まあ恐らくイオリには効かないタイプの幻覚だろうが、……っと!)
ナスカテスラは強化魔法の範囲を足首から下に限定することで魔力の消費を抑え、踏み込みの際にのみ機敏な動きを見せながら水の短刀で影を切りつけていく。
剣の形に固めた水を使えば他の水属性の攻撃魔法よりは消耗しないため、魔力の残量が皆無に等しいナスカテスラには向いていた。
ただし、この攻撃は影には効いてもカマキリには通らないだろう。
だからこそ――ここは聖女の出番だ。
静夏は普段よりも疲れやすいのか肩で息をしていたが、影を消していく合間にカマキリから攻撃を受けても避けることができている。きっと対等に渡り合えるだろう。
そう思っていると静夏の背後から迫る影がいた。
ナスカテスラが現在いる位置では強化魔法があっても五歩はかかる。
その間に影は静夏を拘束して隙を作るだろう。
「……っ!」
聖女ならそれでもなんとかなるかもしれない。
しかしステラリカが消えてしまい、ことのほか慎重になっているナスカテスラは消耗軽減を度外視して遠距離の攻撃魔法を使おうとし――小さな犬が影に体当たりしたのを見て目を丸くした。
「モスターシェ!」
「我々も多少なら動けます! ランイヴァル様の護衛以外は戦わせてください!」
かたじけない、と静夏は微笑んでみせる。
喋る犬に続いて少女や老人もが参戦し、影たちはどんどん数を減らしていった。
凡そ戦場に似つかわしくない面子が繰り広げる死闘の数々にナスカテスラは不謹慎だとわかっていても思わず笑ってしまう。
「ははは! 頭を冷やせたと思ったらまた混乱しそうな光景だな……だが気付け薬代わりにはもってこいだ!」
己に回復魔法をかけながら駆けた先には双頭のカマキリ。
これだけ影が減れば対応できる、とナスカテスラは鋭い視線を向ける。
鎌を振り下ろす速度は早く、防御は間に合わなかったが、鋭利な刃物で切ったような傷は普段よりも回復が迅速だった。
俺様との相性は悪いみたいだね! とナスカテスラはカマキリの腹を切りつける。
が、致命傷を与えきれないのはこちらも同じ。やはり決定打に欠ける。
大百足の時のように細切れにしたものを潰すという方法も魔力が足りなかった。
「シズカ! 今から俺様がこいつの気を引く! その間に懐に入り込んでくれ!」
「わかった、ただ……無茶はしないでほしい」
「しないよ! なぁに、簡単なことさ!」
ナスカテスラはくるりと体の向きを変えると、著しく守りの薄くなった路地に向かって走り始めた。
初めに静夏と話していた時もそうだ。
召喚獣はオルバートが消えた路地を塞ぐこと、そしてナスカテスラたちがそこへ侵入することを防ぐ役割りを優先し、こちらから手を出すまで静観していたのである。
召喚主であるエルフノワールの少女にそう命令されていたのだと窺い知れる。
つまり、路地へ駈け込もうとすれば意識がそちらに引っ張られる。
案の定ナスカテスラを追おうとしたカマキリは双頭のどちらの意識も彼の方向を向いていた。
カマキリは複眼により様々な方向を見ることが可能だが、この個体はある程度の知能に加えて与えられた命令が存在するため、見た後に判断する時間が必要になる。
それはほんの一瞬のことだが、本能で動いている時よりは遅い。
その隙に静夏がその細い体を懐に滑り込ませた。
カマキリがそれに気づいた頃には彼女は足を大きく開いて拳を構え、そして。
筋肉の軋みはまるで鳴動。
力み、握られた指は殻を割るかのように手の平に爪を食い込ませる。
前へと突き出される勢いと圧。
その両方によりベールが剥がれたかのように右腕『だけ』筋肉量が増し――
「はあああァァッ!!」
――ごく平均的な女性の喉から発せられたとは思えない掛け声と共に、しなやか且つ強大な筋肉に包まれた剛腕がカマキリの腹にめり込んだ。
拳が触れる一瞬前から凹んで波打っていた腹に深々と突き刺さった右手。
それはカマキリの脚をあっという間に浮かせ、遠く離れた植物の壁に向かって吹き飛ばす。
壁に激突したカマキリは飛んできた方向の中ほどまで弾き返されたが、その頃には百を越える破片になっていた。
「……」
「……」
「わ、わあ……」
グロテスクな光景に無言になった騎士団の中、引いているとも感嘆とも取れる声をモスターシェが漏らす。
カマキリの撃破を確認したナスカテスラは影の残党を二体同時に切り伏せた。
「安心している暇はないぞ! あとはお邪魔虫さえ倒せば君たちの上司を治してやれるんだ! ちゃきちゃき動け!」
「あ、は、はいっ!」
モスターシェは揺らめく影にタックルすると頭と思しき部分に噛みつく。
ミカテラは「あった! オレの剣!」とようやく見えるようになった剣を抜いて戦い、ベラはランイヴァルの傍らで微小な回復魔法をかけ続ける。
そうして時間をかけ、ようやくフロアは静けさを取り戻した。
疲労から床に転がりそうになったナスカテスラは最後の力を振り絞ってランイヴァルの元へと向かう。少年の姿をしたランイヴァルはか細い呼吸を繰り返していた。
「待たせたね! 君はランイヴァルか! 随分とまあ小さくなって……」
「恥ずかしいところをお見せしてすみません、ナスカテスラ様」
「幻覚は回復魔法じゃ破れないから、回復してもしばらくは我慢しておくれ!」
といっても完全に解けきるのも時間の問題みたいだが、とナスカテスラは周囲を見ながら回復魔法をランイヴァルにかけた。
右腕だけ元の状態に戻った静夏。
重そうな剣を軽々と振るった少女姿のミカテラ。
赤ん坊の姿をしていたベラもはきはきと喋り、二本足で立っている。
極めつけは流暢に喋り表情も豊かな犬の姿をしたモスターシェだ。
幻覚の解ける予兆なのだとひしひしと伝わってくる光景である。
「……今更連中を追っても間に合わないかもしれないけど、回復したらあの路地を進んでみるか!」
「黒髪の少女はああ言っていたが、バルドとステラリカの行方について他にも情報を得られる可能性もある。賛成だ」
私もです、と静夏に続いてランイヴァルも言った。
「しかし回復のために時間を食わせてしまい申し訳ない……」
「君はさっきから謝ってばかりだな! これくらいなんてことないさ、さぁ終わったぞ! そして元気を出せ!」
落ち込んだ様子のランイヴァルの腕を引き、彼の上半身を起こしたナスカテスラはレンズの欠けた眼鏡越しににっこりと笑う。
ランイヴァルはまるで本物の子供になってしまったような気分だったが、相手が長命種なら抵抗感はないなと感じながら頷いた。
そこへ聞き慣れた声が飛ぶ。
「うわーん! ランイヴァル様、助かってよかった!」
「ああ、モスターシェか。お前たちにも心配をかけ――」
ランイヴァルは駆け寄ってきたモスターシェを見て目を丸くする。
絶句したともいう。
それはここにいる全員に当てはまる表情だった。
この一瞬でモスターシェは体の一部が人間に戻っていたのだ。
より正確に言うと、頭だけモスターシェに戻っていた。
見事な人面犬である。
それを理解した全員が悪いとわかっていながらも思わず噴いてしまい、強制的に元気が出たのも致し方ない光景だったという。





