第352話 血痕 【★】
その血痕は凡そ2センチ程度のもので、濡れた土の上に残っていた。
ヨルシャミが召喚したキツネモドキリギリスは激しく触角を動かしながら『これがおかしい』と示している。
「動物のもの、召喚獣のもの、そしてヒトのものではない匂いがするらしい」
ヨルシャミは血痕に近づいてしゃがみ込み、しかし不用意に直接触れるようなことはせずにジッと見つめた。
乾燥はしておらず表面も艶やかだ。
まるで今しがた怪我をして流れ出たばかりのようである。
「……今降っている小雨は朝からだったな?」
「そうだ。たまに止んではいたが、激しくないものの長く降っている」
静夏の返答に頷き、ヨルシャミは「仮説ができた故、ここで試してみよう」と魔法で手元に雨粒を集めた。
水属性の魔法ではなく風で上手く纏めているらしい。
器用だな、と伊織が思っていると、その目の前でヨルシャミは集めた雨粒を血痕に垂らした。
「……あれ?」
「なんだそれ、ペンキかなにかか?」
血痕はまだ新しく見えたものの水に上手く混ざらなかった。
一応混ざりはするのだが、粘度のあるものを入れた時のように水の中で独立して感じられる。
そして、しばらくしてから垂らした水だけが土に染み込んでいった。
伊織とバルドは顔を見合わせ、そしてこれと同じように『自然から拒絶されるもの』を思い出してはっとする。
ふたりが察知した様子に「そうだ」とヨルシャミは頷いた。
「この血痕は魔獣のものの可能性がある。しかも恐らく命は失っていない」
この世界を侵す魔獣や魔物。
それらは死んでも土に還らず、この世界そのものから嫌われたように命の循環の輪に加わらない。
死んだ魔獣はなにもしなければそのまま消滅する。
そのさまは目に見えないほど細かな粉塵と化して姿を消しているかのようだった。
恐らく風に飛ばされるでもなく実際にこの世界から消滅しているのだろう。
そして、死んでいない魔獣の痕跡はこうしてしつこく残るのだ。
「土が特殊というわけでもあるまい。魔獣はここで手傷を負ったのだろう」
「まだこの辺にいるとか……?」
「さてな、しかし他にも痕跡があるかもしれん。この周辺を中心に探すぞ!」
***
セトラスは赤色がひとつも見当たらなくなった部屋を見渡す。
酸化した血の色が変わった、というわけではない。
土と木の根で形作られた部屋ではあるものの、あのおびただしい血の汚れは一日や二日で落とせるものではなかったはずだ。
汚れた個所の土をそのまま抉って捨てれば話は別だが、そんな面倒なことをする者はこの場にはいない。
思い返せばいつの間にか回復したオルバートが真後ろに立っていた時から消え去っていた気がする。
しかし頼り甲斐のない、おぼろげな記憶だ。
(あの時はさすがに周囲を見ている余裕がありませんでしたからね……)
セトラスもグロテスクな光景には慣れており、仮に目の前で解体ショーが開催されても「よそでやってくださいよ」と眉根を寄せるくらいの反応しかしないが、あの時はシチュエーションも被害者も別格だった。
そう腕組みをして考えていると、あの時と同じように後ろから声がかかる。
「セトラス、大百足の様子はどう――なにか見てたのかい?」
件のオルバートだ。
セトラスの視線を追って部屋の中を見回すが、もちろんなにもない。
「今は眠らせているので安定してますよ。細かな検査もしたいですが、まずは貴方が打ちすぎた薬が抜けきってからでないとまともなデータは取れませんね」
「ごめんよ、世話をかけるね」
「……部屋を見ていたのはこうも綺麗になるものなんだな、とぼんやり考えていただけです」
セトラスの言葉を聞いたオルバートは一瞬なにを指しているか理解できなかったようだったが、すぐに「ああ」と思い当ると自分の体を見下ろした。
「血液だけでなく臓腑やそれ以外の体のパーツもそうなんだけれど……ある程度は戻る、回収されるんだよ。全部じゃないから吸収のいい服や、本体の一部だからこそ回収済みと誤認されやすい髪に付いた分……あと不純物が多く混じるとそのままになってしまうが」
部屋の血は上手く回収されたみたいだね、と他人事のようにオルバートは言う。
「たとえば千切った手をシェミリザに持たせて転移させたらどうなるんです?」
「距離によるけど回収の難度が上がるから、代わりの手を生やす方向にシフトするんじゃないかな。……いいねそれ、今度試してデータを取ろう」
「この仕事中はやめてくださいよ」
半分本気で注意しつつ、セトラスは眠っている大百足を見た。
この魔獣は気門の代わりに肺があるため呼吸のたびに体が上下している。
眠っている際は丸くとぐろを巻いているので顔はびっしりと生えた体毛に隠れているが、顎の鋭さは中々のものだ。
「……本当、よくあんな顎でやられて平気な顔してますね」
「顎?」
不思議そうにするオルバートにセトラスは「違うんですか」と思わず聞き返した。
「僕がやられたのは第一歩肢の爪だよ、あと麻酔を打つ時に最終歩肢でも殴り倒された気がする。向こうも驚いていたようだから噛んだり毒で攻撃しようって意思はなかったようだね」
「……」
なら外で倒れていた大百足の顔についていた血はなんだったのだろうか。
返り血、そしてオルバートの語る『回収されそこなった血』ならわかるが、あの時はオルバートが近寄っても消えなかった。
ここへ大百足を連れ戻してから拭き取ったのだ。
その疑問を口にしようとした時、別室からオルバートを呼ぶ声がした。
シェミリザではない。
「……ああそうか、今夜は話があるって言っていたね」
オルバートは頬を掻く。
ラタナアラートの協力者だ。
この空間も協力者が作り出しているため、こうして自由に来ることができる。
「ちょっと行ってくるよ。セトラス、なにか言いたげだったけれど――」
「ああ、いえ、後でいいです」
協力者は自分たちよりは格下だが、里の中ではある程度は優先して協力関係を際立たせておいたほうがいい。中にはギスギスとしつつも長い期間繋がったままの協力者もいるが、そうやって関係が成り立つ相手ばかりではないのだ。
それにわざわざやってくるのは珍しい。
よほど言いたいことがあるのだろう。
オルバートは「そうかい? まあなにかあれば後で訊くよ」と言ってその場を後にした。
「……」
セトラスは片目を閉じる。
他人にここまで興味を持ったのは久しぶりの感覚だが、これは実験対象に対するものに近い。
要するにオルバートを人として知りたいというよりも、その特異な体質に興味があるということだ。
オルバート自身もそれなりに調べた経験があるようだが、先ほどの回収できない距離まで離れたらどうなるかという話のように、まだ試していないことはあるらしい。
それがセトラスも気になる。
ヘルベール辺りにはボスをモルモット扱いするなと言われそうだが、職業病のようなものだ。セトラスは機械系が専門だが生体実験をしないわけではない。
(こういう方向性でもあまり持続性のある興味は持ちたくないんですけれどね……)
時間が経ち、実験に用済みになったら失われる程度の興味ならモチベーションの維持にもってこいなのだが、それ以上のものはセトラスとしては御免こうむる。
他人に興味を持ち、それが長く続き、それなりの反応が返ってくる環境に身を置けば『自分は心を開いてしまう人間』だとセトラスは自覚していた。
人に心を開くのも、その心を開いた瞬間に気づけないのも恐ろしい。
「そろそろこの辺の感覚も劣化してくれませんかね……」
そう独り言を零し、セトラスはもう一匹の魔獣がいる部屋へと向かった。
セトラスとシェミリザ(絵:縁代まと)
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