第349話 いつか彼にも
「この話、どう見る?」
亡くなり、埋葬された後に遺体を持ち去られた。
ベルスミスが話したのはそういう話だ。しかもセラアニスの死因は病だという。
訝しむ顔で問い掛けたヨルシャミに伊織は声をひそめて答える。
「病……そんな話は聞いてないもんな」
「奴が嘘を言っている気はしないが……嘘を聞かされ、それを真実として記憶している可能性はある」
なんにせよセラアニスの遺体はこうして実際に盗まれヨルシャミの器として使われているのだ。そこでなにかあったのは確実だろう。
あれから引き続きベルスミスから話を聞いたところ、ある時に小型のモグラ魔獣が里に現れて畑や木、そして墓地を酷く荒らしたらしい。
その魔獣は弱く、すぐに退治されたが墓地は整備が必要になった。
ベルクエルフは土葬文化だそうだ。
しかし魔法を使って遺体の腐敗を緩やかにすることで疫病の発生などのリスクを抑えていると伊織たちは聞いている。
収められている棺はその補助を担っており、もし魔獣に壊されていたら魔法が正常に働かないかもしれない。
それ故に焦り、一部のベルクエルフが先行して作業を進めたところ――セラアニスの遺体だけどこにも見当たらなかったのだとベルスミスは語った。
棺そのものはあるが、魔獣による被害で損傷が酷かったという。
通常は土中なら開くことはない。
しかし周囲の土も掘り起こす形で荒らされていたため、魔獣によりどこかに持っていかれたという説と、何者かが騒動より前に持ち去った説が出たそうだ。
しかし先行して作業した『一部のベルクエルフ』がエルセオーゼの家に仕える者だったこと、そして真っ先に彼に異変を伝えたこと、エルセオーゼがこんな話を住民に流布するわけにはいかないと判断したことから箝口令が敷かれたらしい。
それは千年と少し前のこと。
もはや時効だろう。リラアミラードも既にない。
それでも黙り続けていた、そんな事柄を外部の人間に話したのは――ひとえにヨルシャミがセラアニスにそっくりだったからこそだ。
当時を思い出したベルスミスは居ても立ってもいられなくなって伝えることにしたのだという。
「ベルスミスはセラアニスが病でずっと苦しんでいたと思っていた。その苦しみから解き放たれ、ようやく土の下で静かに眠れたと思っていたというのに……その眠りは妨げられており、正式な弔いもできていなかったと知った心労は相当のものだったのだろう」
「これだけ時間が経っても引きずってるみたいだったもんな、……」
伊織はセラアニスの笑顔を思い出す。
今、彼女は現世の肉体を明け渡して夢路魔法の世界にいる。
それは見る人によっては死んだも同然だと思うだろう。
しかし自分たちと嬉しそうに話し、異世界のゲームを楽しそうにやりながら笑みを浮かべる彼女は生きていた。伊織から見ればセラアニスは生きているのだ。
きっとつらさを我慢していることも多いだろうが、セラアニスは幸せそうにしている、と。
そうベルスミスに伝えられたらどんなに良かっただろう。
「……本当、一言だけでもベルスミスさんにセラアニスさんの現状を伝えられたら良かったんだけどな……」
真実を伝えないことで救われる者もいる。
吹っ切れた気持ちを蒸し返すことや、時間の流れで風化した気持ちを再び燃え上がらせることを残酷と捉えることも多い。
しかし永い時を生きる種族は記憶の風化も人間より遅く、長く長く引きずることがあるのだ。まさに今のベルスミスのように。
たった一言。
たった一言、セラアニスさんは幸せに生きていますよ、と。
その言葉で千年も続く後悔や哀惜の念から解き放てるかもしれないというのに、今はまだそれができない。
伊織はそれが心苦しかった。
無意識に眉根を寄せた伊織の背中をバルドがぽんぽんと叩く。
「――色々はっきりしてさ、エルセオーゼたちに真実を話し終えたらあいつにも伝えてやろう。あんまり広めていい話じゃないが、近しいエルフでセラアニスのことを覚えてる奴にならいいだろ」
「バルド……」
「多分あの時こうしておけばよかった、ああしてればよかった、……こんな言葉をかけておけばよかった、って色んな後悔が何層にもなってると思うんだ。そういうのはしんどい。最後のあいつの顔、見ただろ」
話の終わりに近づいた頃には、ベルスミスは目に涙を溜めていた。
四桁もの時間の中で少しずつ心の奥底で塗り固めていた感情はリラアミラードを失ったことで揺らぎ、そしてセラアニスと同じ姿のヨルシャミを見ることで決壊したのだろう。
それは決して偽った感情による表情ではなかった。
「うん、話せるようになったらベルスミスさんにも伝えよう」
「感情論で決めるのは危うい事柄だが、まあ……そうだな、セラアニスを今も覚えている者は貴重だ。今は表に出ることが叶わぬセラアニスにとって、完全な忘却は死に近しい」
ヨルシャミたちは今のセラアニスを知っていても、彼女の故郷やそこで過ごしてきた時間は知らない。
その人物の基盤となるものを記憶している第三者がいるのは、セラアニスが再び肉体を得て生き直すことになった際に力になるだろう、とヨルシャミは笑みを浮かべた。
***
灰色に数滴の赤を混ぜたような色が延々と瞼の裏を泳いでいる。
ああそうだ、瞼がある、と気がつくと同時に久方ぶりの意識の浮上を感じた。
順番にヒトらしい思考をすることで意識を形作っていく。
呼吸は? ……している。少し苦しい。
息を吐くたびチリチリと全身が痛む。しかし痛みの伝達が遅い。
薬で麻痺している時に似ていた。いや、まさしくその通りの状態なのだろう。
手足も思うように動かない――というよりも、想定より重い。
手足を持ち上げられるだけの筋肉が備わっているというのに、頭の中にある自分の肉体のイメージと齟齬があって上手く持ち上げられないのだ。
イメージとの齟齬は慣れっこだったが、ここまで逸脱したものは経験がない。
嗅覚は正常。土の匂いがする。
両眼は腫れているのか動かない。視覚から情報を得るのは絶望的だ。
なぜこんなことになっている? ……わからない。
今はいつだ? ここはどこだろう? ……わからない。
自分は何者だ? 名前は? ……わからない。
すべてがわからない。
『グ……、……!』
喉の奥から漏れた異形のような声に驚き、驚いたのはそれが自分の声ではないからだ、という天啓を足掛かりに思い出した。
自分の名前は――ローズライカだ、と。
この世に存在するありとあらゆる自然なるものを愛し、崇め、それらを入れ替えて繋ぎ合わせることに悦びを見出し、そしてナレッジメカニクスという組織に入った。
そこは他に居場所のないローズライカを受け入れ、ここにいていいと言ってくれた唯一の場所だった。
好きなことを好きなだけする代わりに、同じ欲を持つ者に手を貸して互いに利用しあって生きていく場所。
そこに属する者の中には受け入れがたい考えを持つ者もいたが、それでも他のどこよりもローズライカにとっては暮らしやすい組織だった。
幸せな時を生きていたのに、なのに何故こんな状況に陥っているのか。
ローズライカはドラゴニュートだ。
見た目は人間に近いが、人間とは比べ物にならないくらいの生命力を持っている。
そんな自分がなぜここまで自由の利かない不可思議な状態になっているのかわからない――と、そう感じたところで思い出した。
(わたしは、そう、たのみごとを、うけて……)
オルバート。
組織の首魁にしてローズライカに居場所を与えた人間。
そんな彼はずっと満たされない知識欲を抱えていた。
なぜ満たされないのか考えた結果、自分が一番欲している知識がなんなのかわからないからだという結論に至ったらしい。
それを追い求めて様々なものを調べ上げ、その対象は自分自身にも向いていた。
ローズライカは随分とぼろぼろになった記憶を手繰り寄せていく。
——ある日、オルバートが言ったのだ。
それはまるで簡単な日常の雑務を頼むような口調だった。
「ローズライカ、僕の脳を調べてデータとして書き出してくれないかい。君ならできるだろう?」
「……私に頼むということは、開頭してデータを取れということですか?」
ただの精密検査や解剖なら他の幹部でもできる。
そんな中でわざわざ声をかけてきたということは、オルバートがローズライカの技術と特殊な魔法に用があるということだろう。
ローズライカは直接臓器に触れることで専用の器具がなくとも多種多様なデータを取ることが可能だ。
セトラスのカメラアイの触覚版といったところだが――ローズライカはあの生体と機械を掛け合わせた目が嫌いなため、同列に扱われるのは不快だった。
この特技は血筋に根差す固有の魔法によるものであり魔力の消費は多大だったが、基本的にドラゴニュートは人間の倍は魔力を溜めておけるため支障はない。
おかげで時間を要する移植でもバイタルチェックは完璧、ついでに僅かな痕跡さえ残っていれば本人の自覚していない過去の病歴まで調べることができる精度だった。
ただ、組織のボスに行なうには不敬が過ぎる行為なのではないか、とも思う。
「ローズライカ、遠慮することはないよ。それに僕の体は普通の開頭手術に向いていなくてね、是非君に頼みたいと思っていたんだ」
「そういうことでしたら……ええ、ええ! 宜しいでしょう、私も腕が鳴るというものです! 張り切って鳴らす腕を四本にして出向きましょう!」
比喩ではなく本気だ。
手術の際に一対の補佐用の腕と肩甲骨や筋、筋肉、神経などを自身に移植することがある。手先の器用な者から採取したものだ。
自然の恵みはみんなのもの。
シェアしなくてはもったいない。
「期待しているよ」
そう言ってオルバートはほんの少しだけ口角を上げたが、微笑んでいるようには見えなかった。
そして、そう時が経たないうちに実行の時はやってきた。
それまでの間にオルバートの話を聞いて至極驚いたものだ。
なにせ彼は死なない体で、長年同じ見た目を保ち続けていたのもそのためだったというのである。
傷もすぐに治ってしまう。
それはつまり、手術の際の切開や穿孔も勝手に塞がってしまうということだ。
たしかにこれは難儀する。しかしローズライカにとってはこの上ないほど素晴らしいものに見えた。
延命装置などという自然から逸脱した醜悪なものに頼らず、自然の輪の中で派生した永遠の命。
それはローズライカが心寄せる信仰に反しておらず、むしろ尊ぶべきものだった。
そんな彼の開頭とデータ採取を一任された嬉しさたるや、初めて己を解放して一族郎党全員をバラしてから繋ぎ合わせた時に匹敵する。
そうして意気揚々と作業に挑み――そして、どうしたのだったか。
まどろむように記憶を反芻していたローズライカは『そこから先』が頭の中にないことに驚いてハッとした。
オルバートを開頭手術し、それからどうしたのだろう。
とても嬉しかった感情の記憶から先がふっつりと途切れている。
誰かオルバート以外の人物と会ったような気がするが、それがその日の記憶だったのかどうかさえ怪しかった。
『ゥ……ヴ……』
また意識が落ちていく。
それは自分の意思ではどうしようもない眠気に似ている。
完全に意識を失う直前に漏らした声は、やはり己のものではなかった。





