第345話 母のポタージュ 【★】
エトナリカにお礼を伝え、静夏たちの待つ家へと戻った伊織、ヨルシャミ、バルドの三人は吉報として伊織の味覚が戻ったことを伝えた。
静夏の第一声と呼べるものは――無し。
代わりに全身を使ったハグが一秒と経たずに繰り出され、伊織は赤い宇宙だか天国だかよくわからない景色を垣間見た。
ただ母が心から喜んでいるのは伝わってきたため、一種の肉体を使った言語だったのかもしれない。凄まじい『第一声』である。
味覚が戻ってから初めて感じた味はひとまず置いておき、初めての食事は全員でとろうという話になった。
みんなが食べていた数種のソーセージが気になると言う伊織のために初日の朝食と同じものを用意し、そこにサラダと焼き立てのパンを添えて食卓を囲む。
最後にテーブルに運ばれてきたのは牛乳多めのポタージュだった。
「これは、その、リータに手伝ってもらってな。急ごしらえだが私が作ったんだ」
「母さんが……!?」
料理下手の静夏だったが、調理器具の細かな動きが必要な作業以外を担当したのだという。
静夏は少し不安を混ぜた顔で微笑んだ。
「簡単なものですまないが、味覚が戻ったらなにか作ってやりたいと思っていた。叶って嬉しいぞ、伊織」
「……っこっちこそ嬉しいよ。ありがとう、母さん」
伊織は真っ先にポタージュを口に運ぶ。
特におかしな味はせず、まろやかさの中にミルクの甘みが際立っていた。
温かさが味を感じる手助けをしてくれているように感じる。
――味を感じる、ということをとても丁寧に思い出させてくれた。
「うん……美味しい!」
「そうか! それはよかった……乳搾りは初めてだったが上手くいったようだ」
伊織はきょとんとする。
乳搾りとは想像通りの乳搾りだろうか。
静夏の隣に座っていたリータが小声で補足した。
「ラタナアラートでは乳牛も飼育されてるんです。先日お話を伺った方が飼っていたんで交渉してきました」
ちゃんとお代は払いましたよ、とリータは親指を立てたが、伊織としては他のことが気になって仕方ない。
乳搾りをする母親の姿を想像した瞬間から気になっていたことだ。
……搾乳の勢いがジェット噴射みたいになってたらどうしよう。
これである。
しかし特にトラブルはなかったようなので、静夏は戦闘時に垣間見せる絶妙な力加減を披露したのだろう。きっと乳牛も無事だ。
そう伊織がホッとしているとリータが笑って言った。
「ふふ、搾ったミルクがバケツに跳ね返って私の持ってるバケツに入ったのは笑いましたけれどね」
絶妙な力加減を披露していなかった。
いや、ある意味では披露していたと言えなくもないが、伊織の予想したものとは異なっていたようだ。百八十度。
伊織はポタージュを大事に大事に味わいながら「……牛は大丈夫でした?」と声を潜めて訊ねる。
「え? はい、ここの牛は強いので」
「強さは関係あるんですかね……」
「凄いんですよ、マッシヴ様が「この子に頼もう」と多数の牛の中から選び出したんですけど、乳牛なのに筋肉がバキバキで……!」
「か、関係あるタイプの強さだった!」
みんな強いけれど特に顕著でした、とリータは握り拳を作ってみせる。
普段ならツッコミに回りそうなものだが、間近でとんでもないものを見たことでなにかが麻痺してはいないだろうかと伊織はリータが少し心配になった。
しかし――とりあえず誰も傷ついていないのなら、なんの憂いもなく楽しめるというもの。
伊織はゆっくりと息を吸い込むと、端から端まで一通り味わうぞ! と意気込みながらスプーンからフォークに持ち替えた。
***
――久方ぶりに味のする朝食を終えた後。
伊織とヨルシャミの目的は果たしたため、今日からふたりも魔獣の調査に加わることになった。
ただし大人数で一緒に動くと余所者嫌いの住民に更に警戒される恐れがある。
それを考慮し、各斑の人数自体は弄らないことになった。
つまり二人組の斑がもうひとつ増える形だ。
なお、ナスカテスラとステラリカは里を出た身だが、それでも各々知人に情報提供を頼みに行くという。騎士団に組する者というよりは里を心配して帰郷した者として動くそうだ。
古いベルクエルフにはそのほうが受け入れられやすいという。
「聞き込みをするにはまだ少し早い時間帯だ、各々準備をしておくといい」
静夏のその言葉に従い、伊織は準備時間中に質問の内容をシミュレーションして覚えることにした。
いざという時に噛んでしまっては折角のチャンスを逃してしまうかもしれない。
その最中、ヨルシャミがフード付きの上着を手に持ち悩んでいるのが見えて首を傾げる。
「どうしたんだ、ヨルシャミ?」
「いや、倉庫整理中はほぼ室内だったから気にしていなかったのだが……私の外見はセラアニスそのものであろう? セラアニスを知る者にいらぬ詮索をされる可能性があるなと思ってな」
顔を隠していくべきか悩んでいた、とヨルシャミは腕を下ろした。
セルジェスやエルセオーゼには彼らの親族だと伝えたが、その話を各所でしていくうちにボロが出ないとも限らない。
「しかし里の者同士の連絡網は侮れん。今更気にしたところですでに話は出回っているかもしれんな。セラアニスに似たベルクエルフが騎士団と共に来た、と」
ならば逆にそれを活かして話をするきっかけを得るべきか。
そうヨルシャミは考えを巡らせる。
ベルクエルフに話を聞く際にもっとも難関となっているのは『話を聞くためのきっかけ作り』だ。そこで向こうから気になって接点を持とうとするような興味の対象があるのは強みに他ならない。
もう少し考えてみると言うヨルシャミを応援しつつ、伊織は一旦部屋から出て水を飲むことにした。張りきって朝食を食べ過ぎたせいか喉が渇くのだ。
ドアを閉める直前、荷物の点検をしているバルドの姿が見えた。
(あれからなんともないみたいでよかった、けど……)
バルドは悪夢を見ていたことはなんとなく覚えていたが、内容は忘れてしまったという。
そして夜中に一旦起きたこともさっぱりだった。
(内容がわかれば対処法が浮かぶかもしれないんだけどなぁ、悩みが反映されてるならそれを解消するとかそういう……)
眉唾ものだが、夢占いの方向からもなにかアピールできるかもしれない。
そう考えつつ心配げな顔をしていたのだろう、静夏が「なにかあったのか?」と声量を抑えて訊ねてきた。
近頃バルドの様子がおかしいのは静夏にも伝わっている。
伊織が昨晩あったことを掻い摘んで話すと、静夏は両腕を組んでしばらく考えた後に「気分転換にもってこいの方法がある」と笑みを浮かべた。
「気分転換か……」
原因がはっきりせずともプラスに働いてくれるかもしれない。
それに息子の立場的に複雑ではあるが、バルドも惚れた女性の誘いなら気分が上がるというものだろう。
なら宜しく頼むよ、と伊織が言うと静夏は「任せておくといい」と部屋の中へと入っていった。
(……いや、でもちょっと待てよ)
今の母はわりと脳筋な思考回路をしている。
もちろんすべてではないが、伊織は言い知れぬ不安感に襲われ――そしてバルドを伴って部屋から出てきた静夏に小さく肩を揺らした。
静夏は大きな手の平を差し出して言う。
「さあ、伊織もおいで」
謎時空ですが伊織、ニルヴァーレ、ウサウミウシ
とばっちりヨルシャミ(各絵:縁代まと)
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