第344話 抱き枕
その後に診察をし、異常はないということで今夜はこのまま休むことになった。
夕飯は部屋の整理の休憩時間に食べたため問題はない。
(ってことは、明日の朝ご飯が久しぶりの普通の食事ってことになるのか……)
ナスカテスラ特製のお茶はノーカウントである。
できれば母さんたちと一緒に食べたいな、と思いながら伊織は用意された部屋へと向かった。エトナリカが気を利かせて朝食を作ってくれる可能性もあるため、少し早めに起きて一言伝えておいてもいいかもしれない。
伊織はバルドと相部屋で、ヨルシャミだけ別室だという。
ヨルシャミの中身が男性であるということを知らないエトナリカの気配りだ。
気づいた時にはすでに準備されていたため、自分も同じ部屋で大丈夫などと言うのは野暮というものだろう、とヨルシャミはそのまま別室を使うことにしたらしい。
ナスカテスラはナスカテスラで換気をしてから久方ぶりに自室で休むそうだ。
個室以外でここまで少人数の部屋は久しぶりだなぁと思いながら伊織は部屋のドアを開けた。
(バルドは……寝てるか)
なるべく音をさせないように進み、ドアを閉めてカバンをベッドに置く。
ウサウミウシも寝ているのか静かだった。
呪われた魔力の捕縛中も伊織が散々暴れていたというのに、それでもシンとしていたのだから爆睡のプロである。
ベッドはふたつあり、ドアに近いほうをバルドが使っている形になる。
明日に備えて早く寝ようと伊織もベッドに潜り込みかけたところで――バルドが低く呻いた。
眉根を寄せ、なにかを堪えるような顔をして声を漏らしている。
その様子からは普段の陽気さは窺えない。
歯を食い縛る姿に伊織は「こういう時って起こしていいんだっけ?」と戸惑った。
恐る恐るベッド脇に近寄ってみると今度は震えている。
なにかに怯えているようで、いくら夢が原因でも悪夢ならこのままにしておきたくない――と、伊織が手を伸ばした時だった。
ぱちりと開いた焦げ茶色の目が伊織を見る。
目と目が合い、しかしそれによりなんとなく伊織はバルドがまだ寝惚けていることを感じ取った。こういう時の人間の目は独特の雰囲気をしている。
起こしてごめんと謝らなきゃ、とそれでも思った伊織は口を開きかけたが、それより先にバルドが言った。
「泣いてたのか?」
伊織の目元を見ている。
泣いたには泣いたが原因は強烈なお茶のせいだ。感情が伴ったものではない。
しかし赤くなった目元と鼻は泣いた子供を連想させたらしい。
「これは凄く個性的なお茶のせいで……あ! そうだバルド、僕やっと味が――」
わかるようになったんだ。
と、言う前にバルドがそれを無視して伊織の腕を引き、抱き込むようにしてよしよしと背中を撫でた。
なんで!? と内心パニックになった伊織はもがこうとしたが、その手つきがあまりにも優しくて抵抗しきれない。
(あ、そうか、寝惚けてるからこっちの言ってることがわかってないのか……?)
はたと気がついて困ったなと眉を下げる。
恐らく泣いている小さな子供にでも見えていたのだろう。
バルドがあまりにもはっきりと言葉を発したので、あの時点で完全に目覚めたものだと誤認してしまった。
「大丈夫、大丈夫だ、伊織」
小さな声でそう口にしながらバルドは伊織の背中を撫でている。
静夏に抱きすくめられるよりは固いが、強引に密着していても痛みはないのは今なお子供に接するように気を使われているからだ。
伊織は小さく唸った。
今日はやけに子供扱いされるな、と。
(でも……なんだろ、久しぶりだから悪くはないかな……)
なんで今になって、と思うがたまにはいいかもしれない。
――そこまで考えて伊織は首を傾げた。
(いや、なんで今になって……ってなんだ?)
どういう感情でそう考えたのか思い出せない。
不快ではないが不思議な気持ちになっていると、いつの間にかバルドが寝息を立てているのに気がついた。
今度はうなされてはいないようだ。がっちりとホールドされたままなのが問題だが、折角よく眠れているのにすぐ動いては起こしてしまうかもしれない。
苦悶の表情を浮かべていたバルドを思い出した伊織は、まあ頃合いを見て抜け出すか、としばらくそのままでいることにした。
眠りが深くなれば起こしてしまう確率も下がるだろう。
そして寝た。
普通に寝た。
快眠中の快眠である。
連日の倉庫整理、そして今日は部屋の整理に呪われた魔力の除去作業まで重なり、肉体的にも精神的にも疲労していたのだ。
そんな状態で暗く温かい環境に置かれれば寝るだろう。
それを予想できないほど直前まで意識がはっきりしていたが、欠片も想定できなかった辺りは恐らく頭も疲れていたからだと思われる。
結果。
「いやー、随分遅いから起こしにきたら……仲が良いね!!」
「……っへあ!?」
目覚まし時計ばりに大きなナスカテスラの声に起こされた。
目を瞬かせた伊織は周囲を見ようとして気がつく。未だに抱っこされているどころか両腕両足を使って引っ付かれていた。完全に抱き枕である。
窓からは朝日が射し込み、漂う埃をうっすらと浮かび上がらせていた。
外では名前も知らない鳥が鳴いている。
あのまま寝てしまったのか、と気がついたのと、ナスカテスラの後ろに立ったヨルシャミが眉根を寄せているのに気がついたのは同時だった。
「くっ……イオリを抱き枕にしていいのは私だけだぞ……!」
「カミングアウトしてから色々堪えなくなったなヨルシャミ……!」
それはそうだ、とヨルシャミは己の腰に手を当てる。
「ふはは、ここで堪えても意味がない故な! ……ええいっ、それよりバルドよ! そろそろ起きてイオリを解放するのだ! 三秒以内に起きねば足の裏をくすぐるぞ3、2、1、せいっ!」
「カウントが早い!?」
「……ッへあ!? なんだ!? ちょ、待、あはははは!」
先ほどの伊織とまったく同じ声を発したバルドは足の裏への猛攻にジタバタともがいた。
その隙にホールドから抜け出した伊織はヨルシャミを宥めたが――くすぐりはたっぷり十数秒間も続いたのだった。





