第340話 僕はふたりを愛してるよ 【★】
ニルヴァーレを呼び出し、体の主導権を彼にバトンタッチするなり伊織は食事を楽しんでほしい旨と共に「母さんが話したがってるよ」と伝えた。
――随分と酔狂な。
ニルヴァーレがそう思いながら目を瞬かせ、顔を上げると座って尚も大きな女性が向かいにいた。聖女マッシヴ様、そして伊織の母親である静夏だ。
伊織の体を使っていると余計に大きく見える。
不思議だなと感じながらニルヴァーレは気さくに笑いかけた。
「やあ聖女、久しぶり」
「……まだ一年も経っていないが、久しいな、ニルヴァーレよ」
機会はあったのになかなか落ち着いて話せなかったね、とニルヴァーレが言うと静夏は「お互いに忙しかったからな」と緩く笑った。
「だが、こうして会話の場を与えてくれたことをありがたく思う」
「僕はイオリの要望に応えただけさ。お礼はあの子にたっぷり言ってやりなよ」
で、とニルヴァーレは口の端を上げる。
伊織はしない笑い方だ。
「僕と話がしたいっていうのは? なにか必要な情報でも?」
「ああ、だがその前に……共に食事をしないか。途中からになって申し訳ないが、ここにいる皆で」
「食事?」
ニルヴァーレは片眉を動かすと手元を見た。
やたらと大きな弁当から欲しいものを取るための小皿が用意されている。
たしかに伊織はバトンタッチの際にそんなことを言っていた。
今回は完全に眠らせたわけではないので、伊織の意識は残っている。
このまま彼に静夏の意図を訊ねてもいいが――会話をしたい、という願いを叶えるなら、きっとこの瞬間から叶えるべきだとニルヴァーレは理解していた。
「それは親睦を深めようという意図かい?」
「それもあるが、現実での食事を今一度楽しんでほしいと思ったのもある。お前の味覚が適応されるのならば、だが……」
「あぁ、ご心配には及ばないよ。最初はちょっと手間取ったが、今は僕本体の味覚とリンクさせてるからね。味もわかる」
残念ながら伊織には伝わらない五感だが、とニルヴァーレは少し惜しそうにした。
安堵した静夏は弁当の中をニルヴァーレに見せる。
「サルサムが作ってくれたものだ。見事だろう」
「へえ……そんな特技があったのか……僕も食べたって言ったら変な顔されそうだ」
だが頂こう、とニルヴァーレは一口サイズのハンバーグを箸で摘まんだ。
腕の立つ食事屋レベルではないが一般家庭のものよりは美味、といったところだ。
そもそも一般家庭の味などニルヴァーレは欠片も知らないが、目安としてはなんとなくわかる。
味覚は問題なし。
味を感じ取る器官、つまり伊織の舌は正常ということでもある。
やはり呪われているのは魔力で、その呪われた魔力の標的は脳なのだ。
そんな推測をしながら咀嚼していたニルヴァーレはしばらく経っても飲み下さずに口を動かしていた。
「……ふぅん、実際に物を口にするのは久しぶりだが、これは……」
「どうした?」
静夏の問いにニルヴァーレは目を細める。
「――延命処置をしているとね、普通の食事はほぼ要らないんだ。だから、なんというかな……飲み下して『食べた』ことにこんなにも満足感があったんだなと久しぶりに思ってね。ああ、本当に久しぶりだ」
延命処置の後も、夢路魔法の世界でも、食事は生命維持に必要というよりも娯楽の一種に成り果てていた。
しかし今しているのは生きるために必要な行為だ。
そして今感じているのは、そんな欲求を満たせたという満足感である。
懐かしい感覚はとても鮮烈なものだった。
ニルヴァーレは噛み締めるように味わってから口の中のものを嚥下する。
「……ニルヴァーレよ、お前が処置を受けたのは十九の頃であったな」
じっと黙っていたヨルシャミが口を開いて言った。
ヨルシャミはニルヴァーレが兄弟弟子として暮らしていた頃から年齢は把握していたが、延命処置の時期を知っているのはその頃に何度となく襲撃されたからだ。
ニルヴァーレが正真正銘の十九歳だった時代から遥かな時間が過ぎた。
どのタイミングで食事が楽しめなくなったのか根っからの長命種であるヨルシャミにはわからないが、人間の感覚なら早い段階からだった可能性がある。
だね、とニルヴァーレは頷いた。
「三桁……もしくは四桁近くは感じていなかった感覚だよ。――俗っぽいけど悪くはないね」
そう言って熱いお茶をふうふうと冷ましていたニルヴァーレは静夏の隣でバルドが目をまん丸にしているのを見て首を傾げる。
まるで仰天した猫みたいだな、とツッコミを言う前にバルドが口を開いた。
「え、なに、じゃあお前の外見って十九歳で止まってるのか? あれで十九歳?」
「なにか不都合でも?」
「欠片もねぇけど普通にビックリした」
新鮮な反応だ、とヨルシャミが肩を竦める。
「王都周辺の人間は発育がいい故な」
「俺はてっきり二十代中頃から後半くらいかと思ってたわ……」
「それくらいまで待ったらどうかとは言われたよ、けど僕は一刻も早く肉体の年齢を止めたかったからね。組織入りして一年後には手術を受けた」
今は若さだけが美しさではないとわかっているが、とニルヴァーレは続けた。
それを聞いて静夏が微笑む。
「世界が広がったようでなによりだ」
「お陰様で。……聖女、僕はあの時に君のことも美しいと感じていたよ。戦う者の美しさだ。そして泥臭く戦うイオリも美しく感じた。見目の美しさのみを基準にしていた僕の感性に有無を言わさず『美しい』と認めさせたんだ」
それはニルヴァーレにとって青天の霹靂だった。
価値観を壊された、というよりも広げられた、という感覚に近い。
それは一度の人生で何度感じられるかわからない、そんな類のものだった。
「その後もイオリ、そしてヨルシャミは僕に色んなものをくれたんだ。僕は一般人がよく説く愛について理解できないところが多いんだが、うん、そうだね……」
ニルヴァーレは一旦箸を置く。
「僕はふたりを愛してるよ」
「――それを聞けて安心した」
静夏が拳を交えながらも心配していた相手にそう言いきれる者ができたことを。
そして、師弟という関係で息子を任せることになった人間の考えを聞けたことを。
心から安堵し、歓迎しながら静夏は頷く。
ヨルシャミは謎のむず痒さを感じてこの場から逃げ出したくなった。
しかし不思議と鳥肌は立っていない。本当に不思議現象である。
これまでの交流の中でこの程度なら受け入れられる土台ができてしまったのか、と複雑な気持ちになったのは言うまでもない。
(ま、まあ、ニルヴァーレがこうしてはっきりと口に出したのだ。ここは私も素直な気持ちとして受け取っ……)
「それじゃあワンチャン狙おうかな! 聖女、息子さんを僕にくれないか!」
「お前は素直さの振れ幅をどうにかしろ!」
思わずヨルシャミが伊織の後頭部ごと引っ叩くと、ニルヴァーレは小さく悲鳴を上げてカップを取り落としそうになっていた。
***
しばらくの間、弁当に詰められた様々なおかずに舌鼓を打つ。
肉だけでなく野菜類も多く、それもバターで炒めてあったり灰汁抜きされて食べやすくしてあったりと地味に手が込んでいた。
俺と行動してた時は作ってもざっくりしたメシばっかりだったのになー、と口を尖らせるバルドを見つつニルヴァーレが「そういや」と口を開く。
「あれから自由に生きれてるかい?」
「俺? ……まあ、そうだな、自由にやらせてもらってるぞ」
「なんだ、前に会った時より威勢がよくないな」
バルド自身は普通に答えたつもりだったのか「そうか?」と首を傾げてみせたが、なにか心当たりがあるのか無意識に視線を窓の外に飛ばした。
そういえば城の渡り廊下で見かけた時も悩んでるみたいだった、と伊織が頭の中でニルヴァーレに伝える。
「なにか言いたいことがあるならさっさと言ってしまったほうがいいよ。僕は運良く地続きの人生を続けられているが、人はいつ死ぬかわからない。まあ君には無縁かもしれないが」
いいや、とバルドは首を横に振った。
「死なないみたいだけどさ、記憶を失うって前例があっただろ。……そういう今まで生きてきた記憶がリセットされるのは死ぬのに似てる気がするんだ」
「そこまで理解してるなら言えばいいのに」
「あはは、いやぁ、それが不確定要素が多くてな~。ひとまずハッキリと困ってることといえば夢見が悪いことくらいか」
そのせいか疲れやすくて嫌になる、と少しおどけた口調で言いながらバルドは卵焼きを口に入れた。
断片的に記憶を取り戻してからというもの、バルドは自分の中である程度の答えを得てからではないと口に出さないことが増えていた。
すべての事柄で同じようにするわけではないが、悩むほど大きなものでも抱え込んでしまう。
それを伊織が心配しているのを感じながら、ニルヴァーレがどんな言葉をかけるべきか迷っていると――バルドは突然からっとした笑みを浮かべた。
「伊織にも言ったが、気になってることが夢でも幻でもないってわかったら相談させてもらう。それまでに吹っ切れたらそれはそれでいいしさ」
「ふーん……」
夢や幻であってほしい、と。
どうにもニルヴァーレにはバルドがそう思っているように見えた。
(そんなことを思っていたら、いつまで経っても吹っ切れやしないし相談もできなさそうだが……)
バルドもまだ話す時期を窺っているのかもしれない。
ならそこまで自分が世話を焼くことはあるまい、とニルヴァーレは肩を竦める。
「早くはっきりすることを祈ってるよ。ふふ、僕の祈りはレアだぞ」
「ははは、ありがたいことだな!」
ようやく心から快活に笑ったバルドは「これも食えよ、美味いぞ!」とニルヴァーレの小皿に白身魚のフライを放り込んだ。
伊織とウサウミウシ(絵:縁代まと)
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