第244話 旗色悪し逃げろよ夏夏
鱗に覆われた黒い巨体がまるで元からそこにあったかのように現れ、一陣の風が巻き起こる。
顔面にぺったりとくっついていたウサウミウシを引き剥がしたシァシァはワイバーンを見上げると小さく声を漏らした。
しかしその声音から危機感は感じられず、それどころか今にもパチパチと手を叩きそうな雰囲気だ。
「報告にもあったケド……上手い召喚だ、ヨルシャミに習ったのかな? 才能あるヨ、伊織君!」
そんな声に返事することなく、伊織はワイバーンに心の中で「敵だ」「できるなら逃がさず捕まえたい」と伝える。
今までは単純に命を奪いたくないという理由で生きたままの捕縛を目的にしてきたが、今回はナレッジメカニクスの情報を得たいという意図も明確に含んである。
ワイバーンは応えるように短く鳴くと伊織を背中に乗せて羽ばたいた。
台風並みの風が吹くもシァシァはよろめくことなく屋根の上に立ち、顎に手を添えて笑う。
「もしかして無声指令を出せるレベルまでいってる? 良いネ! 近くで観察するからこそ色々と詳細にわかるのは!」
いつもはラボにこもりきりだけどたまには自ら出てくのも楽しいなァ、とシァシァは一歩前に踏み出した。
瞬間、伊織はハッとする。
ワイバーンがとても苛ついたのが伝わってきた。
自分の威圧をまったく意に介していないシァシァに向けられたものだ。
(えっ、お前そんなに短気だったのか!?)
もしくはシァシァのようなタイプが元から嫌いなのか。
シァシァの態度を見るに、口に出さずに召喚対象と意思疎通をはかることはある程度熟練しないと難しいようだが、伊織は初めからできていた。
熟練とはきっと召喚対象への理解も含まれるのだろうが――初めからできていたが故に、伊織にはまだワイバーンについて知らないことが多い。
それを強く感じているとワイバーンが大きく口を開いた。
そのままシァシァに向かって豪速で飛ぶ。慌てた伊織は思わず口に出した。
「……っこ、殺しちゃダメだ!」
咥えるだけ、という短い意思が返ってきたが、それだけで済む気がしなかった。
一旦落ち着けと背を撫でるも止まらず、シァシァの間近に牙の並んだ口が迫る。
シァシァは身を翻して回避すると首を傾げた。
「アレ? 熟練してるみたいなのに制御しきれてない?」
なのになんで無声指令を出せるの?
そう至極不思議そうな顔をした直後、躱した牙が見事に裾に引っかかってシァシァは吹き飛ばされた。
伊織は息を呑んだが、シァシァは重い石が投げられたかのような失速の仕方をすると屋根の上に着地する。
それでも投げられた勢いは殺しきれず、いくつかの屋根を経由して十数メートル滑っていった。
「ウッワ、ビックリしたァ!」
屋根を損傷させながら、三つ編みを前方になびかせて停止したシァシァは細い目を見開いて言う。
「こりゃ本気で来られたらちゃんとした戦いになっちゃうネ……ワタシはそれを望まない! 故にっ!」
そしてそのまますっくと立ち上がって人差し指を天に向けた。
「逃げる!」
「……っ待て!」
「それで待つヒトがいたらもはやホラーだヨ!」
くすくすと笑いながらシァシァは屋根を蹴り、どういった原理なのかはわからないが伊織を捕えた時のように宙に浮く。
伊織はワイバーンにあくまで冷静に、手加減してシァシァを噛んで逃さないようにしてくれと今度は強い意志で伝えた。
具体性のなかった指令にワイバーンがやりたがっていたことのエッセンスを含めて指向性を高めたのだが――それが功を成したのか、ワイバーンは低く唸りつつも落ち着いた様子で羽ばたく。
存外素早く飛んで逃げるシァシァを追い、何度か空振りながらも追いすがった。
巨体からは想像がつかないほど精密な追跡にシァシァは拍手する。
「イイ個体だ! ケドなーんか昔同じモノを見たコトあるような気がするなァ、どこだっけ……」
器用に空中で考えている彼を見下ろす形でワイバーンが飛ぶ。
するとその影に隠れるようにして真下からなにかが跳び上がってきた。
――バイクだ。
シァシァは「へ?」と驚くと一瞬固まる。
背の高い建物を垂直に駆け上がりここまでジャンプしたらしい、と察する頃にはバイクはシァシァの目の前でほんの一瞬滞空していた。
(……! バイク、翼を生やしてパトレアさんと同じジェット噴射をしてくれ!)
伊織は視界に捉えたバイクに形状を変えるよう指示した。
今までは車体に触れていないと意思疎通ができなかったが、人の声が届く範囲なら同じように察してくれると感じ取ったのだ。
伊織は指示に加えて『接触し次第、普段搭乗者を守るために展開しているバリアを捕縛に使ってほしい』と伝える。
魔力譲渡をしていないため、これだけの変形をすれば一瞬で召喚は解かれてしまうだろう。だがシァシァがぽかんとしている今しかない。
バイクはややしなった飛行機のような翼を生やし、後部にジェット噴射口を作り出すと爆音をさせてシァシァに接近した。
「ワァッ! 変形! エッエッ報告通りだネ、カッコイ……ンぐッ!」
逃げるでもなく興奮していたシァシァはバイクと接触するなり四方をバリアに閉ざされ、ついでに顔面をぶつけたのか妙な声を出す。
そのまま落下したシァシァを追い、伊織はワイバーンを旋回させた。
視界の端で魔力を使い果たし、消えつつあるバイクに労いの念を送る。
彼が消えきる前にシァシァを確保しなくてはバリアも消えてしまうだろう。
屋根に落ちたシァシァはごろごろと転がるも、屋根から再び落下する前にぴたりと止まった。
まるでほとんど見えないオーダーメイドのロッカーに入れられた人のようになっているが――本人はその内側から興味深げにバリアに触れて観察している。
そして「ア、ココ弱そう」と呟くと人差し指と中指だけをバキッと外に出し、バリアを横開きにするかのように破った。
「アハハ、ホントはバリアは専門外みたいだネ、バイク君。運転手を守るために普段から結構無理してたんじゃないかな? ケド性能そのものは良いから落ち込まないでって伝えといてヨ」
「……!」
よいしょと起き上がるシァシァを見て伊織は焦る。
そんな伊織の指示よりも先にワイバーンが動いた。
任せろ、といった雰囲気だが先ほどまでのことを思うと不安が先に湧いてしまう。
しかし伊織がなにか言う前にワイバーンはシァシァに向かって飛び、今度は本気で噛みつこうとしているのかと錯覚するような――実際、多少の怪我はさせていいと割りきった動きで口を開いた。
「またソレェ? 生き物ならもう少しアタマを使った動きをしてほし――」
再び避けようとするシァシァの背後に熱風が吹きつける。
青白い火球の群れだ。小さく、それぞれに殺傷能力はないが数が多い。
それが一斉に自身に向かって飛んできているのを見てシァシァはぎょっとした。
「エエッ!? 待ってなんで……ウワッ!」
ばくん! とワイバーンに食われてシァシァの声が聞こえなくなる。
伊織は大いに慌てた。
「ちょっ、食べちゃダメだろ!? ……え、食べてない? 飲み込んでないし噛んでもないから?」
ワイバーンは自分の口を牢の代わりにしたらしい。
しかしこれはいいのだろうか。酸欠とかないのか。誤って喉奥に落ちたりしないのか。伊織がそう対処に迷っていると下方からよく通る声がした。
「イオリ! 今のはシァシァだろう、無事か!?」
「ヨルシャミ!」
道からこちらを見上げるヨルシャミの姿を見て伊織は安堵する。
青白い火球の群れは彼によるものだったようだ。
「大丈夫! そっちはどうしてここに……」
「粗方片付いたところでバイクだけが私を呼びにきたのだ」
伊織がいなくなった後、シァシァと話している間にバイクは単身でヨルシャミを呼びに行っていたらしい。距離は離れているが強制的に送還される前に叶ったようだ。
伊織はワイバーンの背中から下りるとシァシァを口の中に捕えたことをヨルシャミに伝えた。
ヨルシャミは風魔法の応用で屋根の上まで跳ぶと、よろけつつも着地してワイバーンを見上げる。
「ふむ、拘束に適した魔法をかけてやろう。ナレッジメカニクスの幹部にどれほど効くかはわからないが――……む?」
ワイバーンが隻眼を見開く。
すると一秒も置かずにその口がゆっくりと開き始めた。
しっかりと閉じられていたはずの牙に隙間が生じ、それがどんどんこじ開けられていく。その最中にもワイバーンは再び口を閉じようと試みていたがびくともしない。
「……ッフン! ワイバーンの口ってわりと重いネ!」
その口を両腕で無理やり開いたシァシァは、新鮮な空気を吸おうと口をぱくぱくさせた。
呆気にとられていたヨルシャミは眉根を寄せる。
「――吹雪の中で悠々と歩いていた件もだが、お前、強化魔法は未使用だろう。一体なんの道具を補助に使っている……?」
「あァ、あの時はともかく今回は自前の力だヨ」
ドライアドにそこまでの力はないだろうがとヨルシャミは警戒しながら伊織の隣に立った。
それを見下ろし、シァシァは数秒の間だけ思案する。
「キミたちの仲間のフォレストエルフもそうじゃないか、普通あそこまで筋肉つかないでしょ。まァ、ここ数百年の間にたまーにああいう子が出るようになってきたケドさ。世界の防衛反応の一種かなァ……」
「ミュゲイラのことか。だがあれにはお前の言うように相応の筋肉がある」
シァシァは男性の体つきではあるが、どう見ても筋骨隆々とは程遠い。
恐らくミュゲイラのように腹筋も割れてはいないだろう。
そう追求するヨルシャミにシァシァはにっこりと笑った。
「フフ、時間稼ぎかな。さっきからなにか準備してるでしょ、ヨルシャミ君」
「……」
「旗色が悪いなァ、やっぱりワタシはここいらで逃げさせてもらうヨ。捕まったらさすがに怒られそうだし、今度こそ本気でネ!」
本気で、を強調したシァシァは言い終わるなりワイバーンの口から脱出し、一回だけかちりと歯を鳴らした。
また飛んで逃げるのか――と思いきや、空中でその姿が掻き消える。
目を丸くしたのは伊織だけでなくヨルシャミもだった。
つまり魔力の流れすら判別するヨルシャミの視界にも映らなくなったのである。
痕跡を消す魔法はあるが、これはむしろ。
「……奴の発明品か?」
そう小さく呟いたヨルシャミの真横から声がした。
「そう焦るコトはない。またすぐに会えるだろうからさ」
伊織とヨルシャミは同時にそちらを見る。
しかしそこはすでに屋根の端で、人影どころか気配すら残っていなかった。





