第234話 白羽の矢
――こんなシチュエーションは予想外だった。
そう思ったのは他でもないサルサムだ。
あの後ふたりを抱えた静夏とバルドが駆け込み、温泉に向かっていく後ろ姿を見送ってやれやれと一息ついたのだが、その時に宿の外から悲鳴が聞こえたのだ。
ひとり分ではない。リータとミュゲイラのふたり分だった。
慌てて外へ出てみれば、そこに立っていたのは木から落ちてきた雪まみれの姉妹。
積雪量は少なくともなかなか溶けないため、積もるところには積もる。
荷物は無事、怪我もないようだがさすがに寒いということでふたりも温泉送りとなったのだが――なぜか今、全員で温泉に浸かっていた。
静夏により「折角の機会だ、皆で入ろう」という一声があったが故だ。
失敗を利用して良い思い出にしよう。そんな意図のようだがサルサムはつい巻き込まれたような気分になっていた。
「……いや、本当にいいのかこれ?」
そして思わず口にする。
もちろん視線が気になる客向けの専用の湯浴み着は用意されていたが、布の面積が心許ない。水着のやや上位種といった感じである。
自分はまあいい。しかし女性陣はどうなのか、とサルサムが横目で様子を見てみると特に気にはしていないようだった。
「ががぼぶんぎょぶごぼぽば」
「……そんな緊張すんなよって? してない。それよりお前はなんで湯に沈んでるんだ。髪を浸けるな髪を」
揺らめく銀色ワカメと化していたバルドを引っ張り上げ、サルサムは半眼になる。
バルドはすまんすまんと謝りつつ目を瞑っていた。
「いや、想像以上に静夏を直視できなくてな!」
「お前が純情だと気味悪いだけだぞ」
「うわ! 真顔で言いきった!」
言いきらないと正気が保てない。サルサムはそんなことさえ思ってしまう。
サルサムはこの世界基準で見ても大家族の出身だが、全員で風呂に入った経験はない。顔見知りとここまで大所帯でがやがやと入るのは初めての経験だ。
「……」
戸惑い、どうしても周囲が気になり、しかし傷痕が多いからといって負の視線を向ける者は誰ひとりとしていない。
まあこういう機会も悪いもんじゃないか、とサルサムは湯に浸かったまま目を閉じた。
***
伊織は人心地ついた表情を浮かべながら湯舟のへりに寄りかかっていた。
ほんの一瞬で体の芯まで冷えきり、鼻水まで凍ってしまいそうだったが難を逃れることができた。
温泉が命の恩人と言っても差し支えない。
「それにしても……ウサウミウシも入れてもらえて良かったです、あのままだったら自分が温まるどころじゃなかったんで」
そう、伊織のカバンに入っていたウサウミウシも見事に濡れてしまい、しかも水分が多い体のためかカチカチに凍ってしまったのである。
さすがに死んでしまったかと伊織はゾッとしたが、しかしそこは巨大な生き物に飲み込まれても素通りしてくる防御・耐久特化生物。
溶かせば普通に動き出したので侮り難い。
なお、現在は桶の中に入れた湯の中で漂っている。
泳ぐのは下手だが、どうやら多少は自由に浮き沈みできるようだ。浮き袋でもあるのかもしれない。
ただしお湯を大量に飲むと沈んだまま浮いてこなくなるため、こうして専用の桶をあてがわれていた。
「普段は魔獣と勘違いされては困る故、部屋で留守番が多かったからな。ウサウミウシも災難ではあったが良い気分転換になったろう。……が!」
先ほどミュゲイラに豪快に洗われた髪の毛をてっぺんで纏めたヨルシャミが語尾を強調して言う。
「皆、改めてすまなかった。油断していたとはいえ、まさかあんなにも見事に転ぶとは。不覚にもほどがある……」
「いやー、あれは誰にでも起こる可能性があったことだから」
「それにまあ、スパイクを付けてたところで道を荒らさないように気を遣うし、店に入る時はいちいち外さなきゃなんないしな」
伊織とミュゲイラが口を揃えて言う。
スパイク未装着とはいえ、ヨルシャミの靴が特別滑りやすいものだったわけではない。
木製の太鼓橋は古いものだった。
表面が氷のようになっていたのもあるが、ミヤタナ曰く劣化した木の表面に水分が入り込み、そこでまさに氷となっていることが以前もあったそうだ。
元から注意が必要な場所だったというわけである。
それにそのおかげで皆でわいわい入れたしな! とミュゲイラは豪快に笑った。
「へへへ、それにマッシヴの姉御ともう一回入れちゃったし……!」
「あ、これそっちが本命ですね」
リータが声をワントーン低くして言い、伊織が肩を揺らして笑う。
そして先ほどサルサムから聞いた情報を思い出して言った。
「そういえばリータさんたちとヨルシャミの荷物、両方とも中身は無事だったらしいですよ」
「ほんとですか? 一直線にここに来たから把握してなくて……折角買ったものを駄目にしなくてよかったです」
「あはは、ヨルシャミのはさすがに濡れてたけど、拭けば大丈夫なものばかりで――ええと……ところでなんでずっと上を向いてるんです?」
雪でも降ってますか? と伊織はリータの視線を追って空を見上げたが、今日は雲も薄く降りそうにない。
リータは一瞬固まった後にっこりと笑みを作って――要するに目を細めることで視界を遮って伊織のほうへと向き直った。
「いやその、降ったらいいのにな~と思いまして! 吹雪くのは勘弁ですけど!」
「あぁ、雪の降る中で温泉も風流ですもんね」
「昨日私が入った時は降っていたぞ、泊っている間にもう一度くらいは体験できるやもしれんな」
すっかり温まった様子のヨルシャミは「更に温まってやろう」という魂胆で肩まで浸かりつつそう言う。
「へー、……だそうですよリータさん、もしかしたらまた……えっと……」
再びリータが上を向いているのを見て伊織は言葉を継げなくなる。
それはリータにも伝わったのか、冷や汗をかきながら「そうだ!」と唐突に立ち上がった。
「お姉ちゃん、頭洗ってあげる!」
「へ? あたしさっき洗ったぞ?」
「えっ……あっ、えっと、ならマッシヴ様!」
「見ての通り私もミュゲに洗ってもらった」
静夏が纏められた髪を指して言う。
さっきからずっとこの髪型なのだがリータには見えていなかったのだろうか、と一同に疑問が湧いたが、誰かがそれを口に出す前にリータが慌てて口を開いた。
「ぇえっ……とっ……ならまだ洗ってない人――あっ! サルサムさん!」
「俺!?」
まさか自分に白羽の矢が立つとは思わず、傍観を決め込んでいたサルサムはギョッとした。
しかしリータは訂正するでもなくこくこくと頷く。
「そうです! 私、ひとの髪洗うの得意なんですよ、どうでしょうか!」
「ど、どうでしょうかって言われてもな、俺は後で自分で……」
「今とっても誰かを洗ってあげたい気分なんです、助けると思ってお願いします!」
「こんな人助けは経験ないんだが!?」
頭洗いジャンキーのような発言だ。
それでも洗い場に手を引かれては抵抗しづらかったのか、サルサムはしぶしぶ湯から上がる。その後ろからバルドがぶーぶー言った。
「なんだよー、俺の時はすげー嫌がってとんでもないことになったクセにー」
「とんでもないこと?」
「バルド、それ言うなよ。お前の首も締まることになるんだからな」
ドスの効いた声が飛んできてバルドは待てを言い渡された犬のような顔をし、伊織は「あ、あとで僕の頭洗ってくれるか?」とフォローすることになった。
――そういえば自分もまだ洗っていないのだが、一番近くにいたというのにリータはぜ問い掛けなかったのだろうか、と伊織は疑問符を浮かべる。
(まあ洗ってもらうことになったら緊張どころじゃなかったけど。それに……)
ヨルシャミが目の前にいるのだ。きっと断っていた。
疑問は残るが、温泉宿へ着いてからみんな心なしかはしゃいでいる。
不思議なテンションになることもあるだろう、と思いながら伊織は性別の垣根なく楽しむ温泉を引き続き満喫することにした。





