第201話 白い波 【★】
魔力の残量は気にしなくていい。
持てる限りのスピードで飛ばしつつ、しかし先ほどのように急停止した瞬間にみんなが飛び出さないよう、そして犬を怯えさせないように細心の注意を払って伊織は速さを調整する。
さっきは伊織の体を使っているとはいえハンドルを握っていたのはニルヴァーレだ。彼は今までバイクと接したこともなかっただろう。
自分なら、そして自分とバイクならできると確信しながら伊織は犬たちの元に急行した。
雪崩の距離は近く、吹雪も激しさを増して視界が悪くなる。
体が竦んで動けない犬の間近にバイクを停めると、伊織たちは犬にゆっくりと近づいた。もしここで逃げられてしまえばきっと救うことはできない。
幸いにも知っている匂い――ミセリやリヤンの匂いを感じ取ったのか、犬たちはやや警戒しながらも伊織たちに近寄ってきた。
ただ一頭を除いて。
「あいつだけ元は別の群れだったんじゃないか。首輪の種類も違うぞ」
サルサムが確保した一頭を一旦座らせ、両腕で抱いて落ち着かせながら言った。
――これはまずいかもしれない。
そう感じた伊織は雪崩との距離を測るが、すでにその必要がないほど白い波が押し寄せていた。バイクでもここで離脱しなくては逃げ遅れてしまう。
しかし残った一頭は完全に伊織たちを警戒し、地響きへの恐怖心も相俟って尻尾を巻いて後退していた。
ヨルシャミが前に出て唸る。
「ええい! 緊急事態だ、致し方ない! イオリ、夢路魔法であの犬の意識を引きずり込む故、眠ったらすぐ確保しろ!」
「っ……わかった!」
それはつまりヨルシャミの意識もなくなるということだ。
ヨルシャミは短く息を吐くと犬と同時に倒れ込んだ。伊織はサルサムを連れて犬の確保へと向かう。
意識のある状態と違って気を失っている生物は総じて重い。
ふたりがかりで犬を運び、サイドカーに乗せたところで伊織はヨルシャミを助け起こした。
――が。
「……っぅお」
自分たちが乗り込む時間がない。
伊織は咄嗟にバルドを見る。
「バルド! バイクで先に行ってくれ!」
「お前らは!?」
バルドは訊ねながらも運転席に飛び乗ったが、もはや伊織には答えている時間すらなかった。
代わりに大丈夫だと瞳に意思を込めながら来た方向を指さす。
バルドは口を半開きにしつつも慣れた手つきでアクセルを捻り、軌跡を残してサルサムと犬たちと共に走り去った。
伊織はヨルシャミを抱き寄せて集中する。
同時召喚は経験がないが、ニルヴァーレに魔力操作の感覚を教えてもらった今ならある程度はできる気がした。
「……っワイバーン! ごめん!」
自分たちの目の前にワイバーンを呼び出す。
しかし背中に乗る時間も飛び立つ時間はなく、ワイバーンは伊織たちを守るような形で雪崩を背と翼に受けた。
呼び出された直後からすでに『やるべきこと』を理解していたワイバーンは飛ぶためにあるはずの翼を卵のように丸めて雪原の上を流され、大量の雪と共に山の麓へと消えていく。
――それを遠目に見ていたバルドは歯を食いしばった。
安否が気になるがワイバーンならきっと雪に埋まってもその馬力を活かして抜け出せるだろう。ヨルシャミも夢路魔法を解けば目覚めるはず。
そうすれば得意の魔法でなんとかなる。
なら、今は伊織に託されたことを完遂するだけだ。
「サルサム、さっきみたいに飛ばすから覚悟しとけよ。あとバイク! 聞こえてんならシールドとか全部サルサムのほうに回してくれ!」
「お前、なに勝手に……!」
「伊織から離れてってるせいかバイクの維持がギリギリなんだよ、文句言うな」
このバイクで加速に必要かはわからないが、バルドはギアをシフトアップさせると前を見据えた。
シールドはサルサムと犬のいるサイドカーを覆うように展開され、加えてバイクの最後の力なのかベルトが現れて体を固定する。
本来なら雪崩から逃れる際に横や下方向へ走るのはご法度だ。
しかもここまで近距離だと逃げることすら数秒と経たずに意味を失うが、バイクのスピードはスノーモービルすら遥かに越えていた。
それを頼りに斜め下に向かって加速していく。
パトレアの姿はすでになく、彼女が元いた場所も雪崩の余波を受けているのがちらりと見えた。
「あ、と……少し!」
加速に加速を重ね、形状を変えシールドを展開し、更には伊織が完全に遠のいたせいか魔力のメーターが見る見るうちに減っていく。
バルドは岩で跳ねた車体を制御し、雪の上に着地すると雪崩から逃れ切ったことを確認して手早くアクセルを戻して二ヵ所のブレーキをかけた。
バイクも自分の意思でクラッチレバーを動かし停車する。
しかし伊織がおらず踏ん張りが利かないのか、バイクは横回転しながら木々の間に突っ込んだ。
大きな大木に激突し回転が止まるが、反動をすべて受けたバルドの手は簡単にハンドルから引き剥がされ放り出される。
そしてバイクから優に数十メートルは飛ばされ、雪や木に何度もぶつかって勢いを殺しながら数秒かけて静止した。
***
「っ……」
サイドカーに乗っていたサルサムはしばらく飛んでいた意識を手繰り寄せると頭を振り、犬たちがすべて無事なことを確認すると運転席を見る。
案の定バルドはいない。
するとバイクが一度だけクラクションを鳴らして掻き消えた。魔力が底をつき強制的に戻されたらしい。
雪の上に放り出されたサルサムは犬を宥めつつ周囲を見る。
バルドはどちらへ投げ出されたのだろうか?
ふらつきながら立ち上がると停車した際に運転席の左側――サルサムたちの乗っていたサイドカーとは反対側に薙ぎ倒された細い木があるのが見えた。
(結構距離があるが、あんなとこまで吹っ飛んだのか……?)
サルサムは荷物の中からロープを取り出すと犬たちの首輪に通し、即席のリードにして近場の木にくくりつける。
そうして細い木の場所まで移動すると、サルサムは閉口した。
見覚えのある右手が落ちている。
――バルドの不老不死の性質は知っているつもりだが、現物がここにあるのはいいのだろうか。
回復できないということはないのか。
逡巡しつつもサルサムは血が止まり冷たくなった手を持ち上げた。まるで作り物のようだが、体毛まで再現された作り物ならそれはそれでゾッとする。
(……もし……もしもまた頭まで修復されるようなことになってたら、あいつはどうなるんだ?)
サルサムはバルドの記憶が一部戻って以来、終始思っていたことを再び考える。
別人のように見える、と。
もし今回の衝撃ですべてを思い出していたとしたら、サルサムの知るバルドは完全に失われてしまうのではないか。
(まあ、俺がそれで悩む必要なんてこれっぽちもないんだが。……本来なら)
共に数年過ごした時間はビジネスパートナーに近かった。
サルサムの性質として世話を焼いてはいたが、いつ離れることになってもいいようにしていたつもりだ。
しかし伊織たちと共に行動するようになってからは完全に仲間というくくりに入っていた。
それによる心境の変化かと自問自答してみるも、答えらしい答えは浮かばない。
それこそが正解な気もした。
きっと、ビジネスパートナーだと思っていた間もゆっくりと変化はしていたのだろう。それが今顕著になっただけだ。
どこではっきりと変化したなどわかるものでもない。
「――バルド! 聞こえたら返事しろ!」
血の跡を追って木々の間を進んでいく。
二十メートル近くは歩いた気がする。バイクは相当のスピードだったため激突しながらであったとしても然もありなんだろう、とサルサムは眉根を寄せる。
しばらくは雪を踏みしめる音しか聞こえなかったが、何度目かの呼びかけに返ってくる声があった。
「サルサムか?」
「……! ああ、どこにいる?」
「あっ、ちょっとタンマ! そこで待っててくれ!」
焦ったようにそう言われ、サルサムは右手を持ったまま足を止めた。
しばらくして雪の積もった草陰から突然バルドが転がり出てきてギョッとする。
案の定と言えば案の定だが色んなパーツが足りていない。
血生臭いものに見慣れているサルサムでもさすがに変な笑いが漏れた。
「いやスマンスマン、さすがにスプラッタなもんは見せらんないからさ」
「お前な、今でも一般人相手なら十分卒倒ものだぞ」
「さっきまでと比べたらこれでもマシになったんだって! いやー、生命活動に必要な部位は引っ付き直すんじゃなくて再生成されるんだな。ただデカいパーツは集めたほうが早そうだ……おっ、拾ってくれたのか!」
バルドは右手をまるで落としたハンカチのように受け取ると右腕にくっつける。それはあたり前のように癒着し、数秒後には正常に動いていた。
そんなものをサルサムは初めて見たが、転生者の能力の底なし加減に背筋が冷える光景である。
「すまないが足りない部分を探すのを手伝ってくれないか? この状態じゃなかなか移動できなくてさ」
「いいが、……」
「どうした?」
「……頭は損傷したのか?」
自分で思っていたより慎重な声音になったことに驚きつつサルサムは訊ねた。
バルドは明るく笑って答える。
「それがさ、なんと頭は無事だったんだよなぁ、首はやらかしたんだけど良い感じに突っ込んだ雪の中にあったのが枯草の山でさ。……な、なんだ、マジでどうした?」
その場にしゃがんで頭を低く落とし、これでもかと脱力したサルサムにバルドは目を白黒させたが、
「っはー……気にするな、とりあえず足を探すぞ、犬も待たせてるしな」
サルサムに答える気は毛頭なかった。
バルドの設定画(絵:縁代まと)
※イラストがリンクのみの場合は左上の「表示調整」から挿絵を表示するにチェックを入れると見えるようになります(みてみんメンテ時を除く)





