第170話 おかえりなさい
カーテンの隙間から差し込む光がちらつき、伊織はうっすらと目を開けた。
寝ぼけた目をゆっくりと彷徨わせ、その途中で緑色を拾った視線が動きを止める。
窓際にセラアニスが立っていた。
そのままこちらを見下ろし、不遜な笑みを浮かべて言う。
「よく眠っていたではないか、イオリ」
「……へ!?」
不遜で尊大で自信満々で、少しだけ優しげな声音。セラアニスではない。
そう瞬時に理解した伊織は布団を跳ね除けるようにして起き上がると何度も目を擦った。
――ヨルシャミだ。
セラアニスが真似をしているわけでも、誰かを見間違えたわけでも、夢でもない。
たしかにヨルシャミがそこに立っていた。
「あの時はほぼ会話できなかったからな、あれを含めなければ随分と久しぶりか」
といっても一週間か二週間程度のことだが、とヨルシャミは笑う。
目の前に自らの足で立ち、伸ばした背筋にすら自信が溢れ、呼吸をし声を発し、現実に存在している。
伊織は不意にこの世界に生まれ変わり、健康な姿になった母親を見た時の気持ちを思い出した。
嬉しくて泣きそうになり、相手がこの世に存在してくれているだけで満たされて安堵してしまうような気持ちだ。
伊織は一呼吸置いてからそれを再確認すると、返事をするのも忘れてヨルシャミの腕を引いて抱き寄せた。体は温かく鼓動はしっかりと打っており、抱き締めた体からは呼吸も感じられる。
「……っ帰ってきてくれてよかった!」
「んな」
ヨルシャミは思考が停止したかのように固まった。
そうしてじわじわと数秒経ってから耳まで赤くなると、猫が尾を踏まれたような声を出し――それにより、部屋の全員が起床することと相成ったのだった。
***
セラアニスは回復のために一時的な眠りについたが、いつかはこの世に呼び戻す。
再び肉体を与えられるすべも見つけてみせる。
これまでの経緯を聞いた面々は最後のその言葉に安堵の表情を浮かべた。
「そのまま消えてしまわなくてホッとしました……だって、あのままじゃセラアニスさんが不憫でしたから……」
「同意見だ。私の影響も受けてはいたが、あれは本当にただの少女だった故な」
リータにそう頷き、そしてヨルシャミは部屋の隅にいる伊織を見る。
「それはさておき、なぜお前はそんな隅っこにいるのだイオリ……!」
「いやその、感情に任せて軽率なことをしてしまったから反省と再発防止のためというか……」
嬉しかったから。
抱きしめたくなったから。
そんな理由で許可もなく抱き寄せたことに伊織自身も大層驚き、説明を聞いている間中ずっとあそこにいたのだ。
縮こまった様子にヨルシャミは頬を掻き、そして手招きする。
「それに関してはもういいから、ほら、こっちへ来い」
「う、うう……わかった」
それでも尚気まずそうにしつつ、伊織は部屋の隅から腰を上げて近寄った。
まるで人慣れしていない野良猫である。
――魂の回復は時間をかけて行われる。
それは伊織が転生した際に十数年間眠り続けていたのと似たものだ、とヨルシャミは説明した。終始安静にし、その間に魂の修復と安定化を図るのだ。
「とはいえセラアニスの場合は世界も跨いでいないし、こうして元の肉体を揺り籠にもできる。イオリのような長さは必要あるまい。……が、この私にも初の経験だ、すべては未知数であるが」
「セラアニスさんがまた生きられる可能性があるだけでも凄いですよ、……本当に」
よかったぁ、とリータは座っていたベッドの上に突っ伏した。
セラアニスとヨルシャミ、両方とも応援し心配していた気疲れがどっと押し寄せたせいだが、リータのポジティブな例の『目標』を知らないヨルシャミは単純に友人の消滅を回避できて気が抜けたのだろうと解釈し、リータの背中を軽くさする。
「リータはセラアニスと随分と仲良くなったようだったな。まあ私もお前も長命種、また会えるのもそう遠い未来ではあるまいよ」
「ふふ、そうですね……それが無事に叶った時は、街じゅうのカフェ全店巡りに誘ってパフェをコンプリートします!」
「全店は無謀ではないか!?」
目標は高く持たないと! とリータはわりと本気の目をして握り拳を作った。
この目標が達成されるのも意外とすぐなのかもしれない。
「そんで、ヨルシャミは体に異変とかないのか?」
首を傾げるミュゲイラにヨルシャミは頷いて体を見下ろした。
「しかし変化は感じる。噴水広場で回復魔法を使った時のダメージが予想よりも低かったのだ」
一部がセラアニスの脳になったことにより、属性の相性による回復魔法の反発が少し和らいだ。逆の結果をもたらす可能性も大いにあったが、そちらには転ばなかったわけだ。
意図したものではないだろうが――それはセラアニスからヨルシャミへの贈物のように思えた。
「ただし多少の融通は利くようになったが連発はできん。攻撃に回す余力がなくなるかもしれんからな」
「あたしらが戦う時は今まで通り怪我に気をつけるべし、っつーことか」
「ミュゲイラ、お前は今までもあまり気をつけていたように見えなかったが……」
カザトユアで拳を爛れさせて戻ってきた時も、赤目蛇の尾を掴んでいた時も、肉体が武器な以上仕方のないことだがミュゲイラは無茶な戦い方をするタイプだった。
同じような戦い方をする静夏と並んでいると目に見えて明らかである。
半眼になっているヨルシャミにミュゲイラは「いやー、これからはもっと気をつけるって!」と笑う。
そして視線をあちこちに飛ばしたかと思うと、やや声を潜めてゆっくりと言った。
「……ヨルシャミ、あん時はありがとな」
「む?」
「あたしを庇ったろ」
トンネルの崩落時にヨルシャミはミュゲイラを庇って頭部に傷を負った。
恐らくロジクリアにヒルェンナたちがいなければ手遅れになっていただろう。
ミュゲイラはヨルシャミが目覚めたら謝罪ではなくありがとうと伝えようと思っていたのだ。口に出すと意外と謝罪よりも気恥ずかしいものだったが、やっと伝えられたと安堵もした様子だった。
意図を汲み取ったヨルシャミは「礼などいらん」と言いながらも笑みを浮かべて肩を竦める。
「むしろ手負いとなって足を引っ張ったことが情けないくらいだ」
「……っははは! 今後はお互い気をつけるべし、だな」
変わらないヨルシャミの様子にミュゲイラは背中をばんばんと叩き――ヨルシャミが思いきりむせ込んだのを見て、今度はとても素直に謝ったのだった。
***
しばし言葉を交わし合い、サルサムとミュゲイラが作業に出る時間になったところで「そうだ」とヨルシャミが手を叩く。
「セラアニスから頼まれごとだ。眠る前に伝言を預かっている」
「セラアニスさんからの……?」
ヨルシャミはすいっとベッドの脇にある戸棚を指さした。
「あの戸棚の一番上の引き出しを見てほしいらしい」
ヨルシャミり言葉を受けてリータが戸棚に近づいて手をかける。
恐る恐る引き出しを開けると――そこにあったのは、人数分の巾着だった。
縫い目が荒く、少し歪だが使うのに困るほどではない。
それが初期からどれほど成長したものか、どれほど練習したものかリータが一番よくわかっていた。
鼻を啜りながらリータはそれを手に取り、仲間の前まで持ってくる。
伊織はその中に手芸店で自分が選んだ布と糸で作られたものを見つけ、それをリータから受け取って小さく呟いた。
「……約束、守ってくれたんですね」





