第160話 信じてくれた貴方に応えたい
ロジクリアの中に現れた魔獣は鋼鉄ワイヤーのような毛を生やした羊型で、成人男性ふたり分ほどの大きさをしていた。
目元や足先が見えないほどの毛量。
その中でも特別長く伸びたものが数本、触手のようにうねっている。
毛に神経が通い自在に動いているように見えるが、どうやら自由自在というわけではないらしい。
「セラアニスさん、見てください。あの毛、本体から一メートル以内に動くものが入ると自動的に攻撃してるみたいですね」
伊織は呼吸を整えながら羊型の魔獣を観察した。
よく見れば範囲内に入ったものなら人間以外にも反応している。住民が投げた石、野良犬、ネズミ、落ちてきた鉢植えや転がったボールなどだ。
本体はそれを理解し、自ら人間の多い場所へと突っ込んでいた。
周囲の人々の話を耳で拾ったところ、魔獣は初めは街の外にいたらしい。
それが短時間で内側へ内側へと入り込んだのはこれが原因だろう。
「……! イオリさん、あのカフェのテーブルのところ!」
セラアニスが伊織の袖を引いて知らせる。
オープンカフェに子供がふたり取り残されていた。ふたりとも腰が抜けて上手く立てないでいる。
しかし腰が抜けていても両手両足は不自由ではない。
不自由でないなら脅威から逃げようとがむしゃらでも動かすものだ。
たとえ大きな音が出ようとも。
それが今は最大の悪手だと子供たちは知らない。
伊織は瞬時にバイクキーを空間に挿して愛車を召喚し、セラアニスにそこで待つように伝えて急発進させた。
鋼鉄の毛の一撃は早いが、人間以外の動くもの――犬猫には逃げられている。
つまり反応速度の限界は思いのほか低いということだ。きっと硬く重い素材のせいだろう。
逃げようとするふたりが羊型魔獣の攻撃範囲内に入った瞬間、伊織は子供ふたりを両腕で掻っ攫った。テーブルを薙ぎ倒しながらも車体を寝かせて即時方向転換し、振り下ろされた鋼鉄の毛から逃れて離脱する。
両腕は子供を抱えるのに塞がっている。
ほとんど両足の力だけでバイクに体を固定し、アクロバティックな動きができたのはひとえにバイク自身が伊織の体を支えているからに他ならない。
鋼鉄の毛の攻撃速度とは違い、魔獣本体の移動速度は全速力の犬に近い。
あの巨体で、だ。
セラアニスの元へ戻って子供を下ろしてもすぐに追いつかれるだろう。
そう判断した伊織はほんの数秒だけセラアニスの真横にバイクを停止させて言った。
「セラアニスさん、乗ってください」
「のっ、乗る……!? これにですか!?」
「はい、後ろに跨って僕の腰に掴まってください。難しい動きでなければコイツが自分で走ってくれるんで」
ハンドルを握っていたほうが操縦の精度は高い。
しかしこの場から離脱するだけならバイクに任せてもなんとかなる。
セラアニスはきょとんとしていたが、一刻を争うことは彼女もわかっていた。
すぐ言われた通りに跨ると、おずおずと伊織の腰に腕を回す。
そしてバイクは元いた広場方面に向かって一直線に走り始めた。
***
セラアニスは思う。
ああ、きっとこれが伊織の言っていた『バイク』なのだろう、と。
鉄でできた機械仕掛けの乗り物。
そんな印象を与えるが、その一方で血肉ある生き物のようにも感じられる。
それは走っている間も車体から気を遣う気配が伝わってきたからだろう。
住民は門番たちの誘導により大半が魔獣とは逆方向へ避難できていたが、子供たちのような逃げ遅れは他にもいる。
それを伊織がバイクの隣にサイドカーを作り出して拾っていった。
(この乗り物……)
初めて見るもののはず。
名前にも聞き覚えがなかった。
だというのに自分は全身でこれを覚えている、そんな気がしてならない。
(私は……この乗り物を知ってる。それに)
伊織の腰に回した腕。
前にも同じようなことをした気がした。
あの時よりも触れた感触が逞しい、そんな錯覚さえ起こす。――本当に錯覚なのだろうか、とそんな疑問がセラアニスの中に湧いた。
「……!」
この乗り物がこの世界に初めて生じた時。
その瞬間を伊織と共に目にした記憶。
それが生々しく蘇り――しかし生々しいからこそ『自分のものではない』という感覚も強くなり、セラアニスは震えた息を吐いた。
それが凄まじいスピードで突き進むバイクに引き裂かれた空気で掻き消されるのを感じ、伊織に気取られなくて済んでよかったと今度は安堵のため息をつく。
セラアニスは彼に余計な心配をかけたくなかった。
伊織は広場にバイクを停めると、救助した人々に南門側へ逃げるよう指示する。
丁度その時、魔獣が広場に突っ込んできたのを見てセラアニスは小さく声を上げた。驚いたからではなく恐怖したからだ。
(イオリさんがこんなに頑張ってくれてるのに、私は……)
魔獣の存在は里にいた時も耳にしていた。
襲撃はセラアニスが物心つく以前に何度かあったそうだが、その後は里の中まで入られることはなかった。それは里の守り人たちが善戦していたからだ。
――成長してから知ったが、この頃のベルクエルフには攻撃魔法に特化した者が少なかったため、強敵に対する基本的な戦法は強力な回復魔法に頼って正面から特攻にも似たごり押しで魔獣を制圧するというものだったという。
それはいくら守り人でも恐ろしかっただろう。
それでもなお立ち向かっていたのだ。
あの時の守り人のように伊織は人々を守っているが。
(私はあの時のまま)
セラアニスは下唇をきゅっと噛み、全身に潜む魔力に集中した。
どれもこれも混乱したように動き回り、薄い場所や濃い場所が作られちぐはぐになっている。
魔力操作にはそれらを自分の望む事象を起こすことに有利な場所へ引っ張っていくことも含まれていた。
セラアニスは特別魔力操作が上手いわけではない。
その上、なぜか使い慣れた魔力から少し変質している気がする。
(魔力が著しく枯渇してから回復した直後みたいな感覚……)
外に漂う魔力は体内に入り込むと性質を宿主に合わせて変える。
その新たに含んだ魔力の量が多いと変換が間に合わず、魔導師は一時的に魔力がいつもと違う、馴染んでいないと感じるのだ。それに似ていた。
しかし似て非なるものだ。
セラアニスは必死に自分の扱い慣れた魔力に近いものを集める。
「わ、私が回復魔法で支援します。救援が来るまであの魔獣を撹乱できますか」
「セラアニスさん、……わかりました、やります!」
伊織はセラアニスが回復魔法を使えないでいたことを知っていたが、二つ返事で頷いた。セラアニスはそれが嬉しい。
この時この瞬間は確実に『私』を信じてくれたと強く伝わってきたからだ。
セラアニスは使い慣れた回復魔法を発動させる。
そして伊織を送り出した。
「――行ってください!」





