第155話 乙女、語彙が消し飛ぶ
休憩を終えた伊織と少女は噴水広場から離れると、教えられた花屋へと向かうべく再び歩き始めた。
気分の悪そうな人間にバナナジュースはどうなんだろう、とは伊織本人も思ったものの、ショックが原因だったのもあり甘いもので落ち着いた様子だ。顔色も随分と良くなった。
しかし問題がひとつ。
「うーん、なんかこれ……また迷ってる気がしますね」
伊織は頬を掻いて辺りを見回す。
最初の花屋で聞いた道順を紙に書く前にラブリーちゃん事件が勃発したため、道順は暗記するしかなかったのである。
そこまで難しい内容ではなかったが、はてあの道は右だったろうか、というかその手前にあった目印はカエルの置物ではなくネコの置物ではなかったか、などと思っている間にわからなくなってしまった。
「すみません、休憩して頂いたせいで余計にわからなくなったんじゃ……」
「あれは必要な寄り道だったからいいんです。けど確実に近づいてると思いますよ、こうして当てずっぽう気味に進んでても……あっ、ほら!」
伊織は道の向かいに見えた青い屋根の家を指さす。
「たしか青い屋根の家を右に――」
「そこの兄ちゃん姉ちゃん、ミカン安いよ~! 試食してかないかい!」
「こっちのヤマモモも最高だよ、おいでおいで!」
おわっ、と思わず声を漏らした伊織は活気ある青果店の呼び込みに捕まり、店の前まで誘われていった。店までのエスコートがプロのそれだ。
強引なものの商品は悪くなく、値段も平均だった。
少女は笑いながら言う。
「……待たせたお詫びに買うっていうのもアリですよね」
***
あっちへふらふら、こっちへふらふら。
街の様々な場所へ赴く伊織たちを背後から見ながら、リータとセラアニスは目的の予想をしあっていた。
「こ、これは……やっぱりデートというものでは?」
「出会って間もない人とするものなんですか!?」
「人によってはあるみたいですよ、わ、私は経験ありませんけど」
嘘を言えないリータはもごもごしながら補足する。
豊富な出会いとは縁遠い境遇だったので致し方ない。
思い返してみれば、バルド辺りは即デートへと移行する流れに慣れた素振りをしていた気がした。仲間として合流してからは鳴りを潜めていたが、伊織が初めて直接会った時もそんな様子だったという。
見習いたくはないが、体験談くらいは聞いておくべきだったかなとリータは遠い目をした。
ふたりの視線の先では伊織と少女が野良ネコにつきまとわれていた。
先ほど試食でなにかを食べていたので良い匂いでも付いたのかなと――そうセラアニスが考えていると、野良ネコが少女のリボンを咥えて路地裏へと入り込む。
これには思わずリータとセラアニスも同時に「あ!」と声を出してしまった。
そんな声には気がつかず、伊織たちは大慌てで路地裏へと駆けていく。
「ど、どうします? 追いますか?」
「あんな細い道じゃ後ろから追ってたらすぐ気づかれるかも……うう、けどここまで来たんです……行きましょう!」
数秒迷ったものの、決意したリータはセラアニスの手を握って路地裏へと飛び込んだ。
店の裏口や民家ばかりが目立つ細い道だった。
生活感が色濃く、まるで入ってはいけない私有地に迷い込んでしまったような気分になる。
それが途中から壁にもたれかかって眠る酔っ払いの姿を見かけるようになり、各所を彩るポスターも成人を対象としたものが多く見られるようになったところでリータは冷や汗を流した。
(も、もしかしてとんでもないエリアに来ちゃったんじゃ……)
これは伊織たちを見失うわけにはいかない。
しかし真後ろから「きゃっ!」という声が聞こえ、手を繋いでいた腕を引かれて足を止めるしかなくなってしまった。
「す、すみません、躓いてしまって」
「こっちこそすみません、手を引いてるのに早足になりすぎましたね……!」
リータは健脚である。それは森育ち故だったが、山育ちのはずのセラアニスの様子を見るに個人差があるようだ。
ヨルシャミさんの時もそこまで歩くのに慣れてなかったみたいだし、と心の中で反省しつつセラアニスを助け起こし、振り返ってみると伊織たちの姿が見えなくなっていた。
まずいと思ったものの、まだ取り戻せない距離ではない。
幸いしばらくは一本道のようだ。
リータは足元に目をやる。
「足は大丈夫ですか?」
「はいっ! リータさん、行きましょう!」
セラアニスに頷き返し、リータは再び足を進める。
程なくして伊織と少女の背中が見えてきたが――
(んっ……!?)
リータは思わず足を止めた。あれだけ急いていたにも関わらず、だ。
伊織たちはとある建物の前で歩みを止めており、そこで看板を見上げるように立っている。
その建物というのが問題だった。
猥雑なエリアにあるホテル。その目的はどう考えてもアレでアレなアレである。
リータは見た目より長く生きているものの経験はないが、知識としてならもちろん有していた。
(これはさすがにマズいんじゃ!?)
リータはあわあわとしながらセラアニスを見る。
相談、もしくはこのなんとも言えない気持ちを共有したかったのかもしれない。
――だが。
「足を止めてどうしたんでしょう……?」
セラアニスはミリほどもわかっていなかった。
ここは私がやるしかない。
リータは混乱と共に湧いた使命感に突き動かされるようにして伊織たちの元へと走る。しかし混乱と共に湧いたのなら、それはもうきちんとした使命感ではなく混乱した使命感なのである。
「イ、イオリさん! 出会って間もないのにそれっそういうっあのっ、それ! いけないと思います!!」
語彙の消し飛んだ状態でそう言いながら突撃すると、振り返ったふたりはきょとんとした顔をした。
その後ろ、ホテルの看板の上にいた野良ネコが大あくびをし、それと同時にリボンがひらりひらりと落下する。
「……あれぇ……?」
そして、一拍遅れてリータも伊織たちと同じ表情をしたのだった。





