第149話 彼の記憶
色んな土地で色んな景色を見て色んなものを食べて、色んな人々と出会う。
誰かと親しくなることは稀だったが、興味のある話題なら言葉を交わすのも苦ではなかった。
そんな数百年分の記憶。
それを追体験していたセラアニスは、途中で『ここは夢の中だ』と気がついた。
一度気がつけばそれが確信に変わるのもすぐのことで、しかし目が覚めることはなく、セラアニスは珍しい明晰夢に心躍らせる。
すべて主観の映像だったが、どれもこれも見覚えがない。
(もしかしたら失った記憶を思い出すヒントになるかも……)
記憶が物理的に失われたのでないならば、こういう形で垣間見ることができてもおかしくはないだろう。
セラアニスは里にいた頃に旅人から『記憶を思い出すために催眠術を使う治療もある』という話を聞いたことをふと思い出した。
この状態なら催眠術で記憶の奥深くに潜るのと似たことができるかも。
そう自ら行動しようとしたが――どうやら自由に動けるものではないらしい。
まるで観劇中にイスに縛りつけられてしまったようだ。
(でも里で聞いた話を思い出したように、芋づる式に記憶が蘇る可能性もあるんですよね……目が覚めてしまうまでしっかりと見ておきましょう!)
もし起きてからも内容を覚えていたら、リータたちに本当にあったことか訊ねて答え合わせができる。
セラアニスはやる気を出しすぎて起きてしまわないよう気をつけながら、再生され続ける記憶の断片に集中した。
深い緑の山。里に生えていた木々とは違う種類のものが沢山ある。
黒い石で出来た石柱。表面に見たことのない文字が刻まれている。
不思議な液体越しの映像。時折人影が見えるが誰かはわからない。
古めかしい魔導書の数々。家にあったものの優に五倍の量がある。
「……」
初めて見る人々の顔。
それが本当に初めてなのではないか、とセラアニスは疑問を持ち始めた。
思い出すきっかけにならないほど、どれもこれも初めて見ると感じるものばかり。
知らない場所、知らない人、知らない私物、知らない記憶たち。
それに気がついたセラアニスは雪山にひとり置いていかれたような不安と恐怖を不意に感じた。
その時、目の前に伊織と話す光景が現れてどきりとする。
驚いたものの不安や恐怖心は消し飛んでいた。
(でも、この時に話したことも覚えてない……)
どこかの山をバックに話しているようだが、生憎音声は入っていない。
記憶の中には音の聞こえるものもあったが、ここでは欠けてしまっているようだ。
伊織と共にいる『セラアニス』は彼を杖で小突き、その後にいくつか言葉を交わしてから契約魔法で腕輪を具現化させ――セラアニスは目を瞬いた。
(やっぱり私じゃ……ない?)
いくら理由があったとしても、人を杖で小突くなんてことはしない。
それに、そう、セラアニスは回復魔法以外は使えないのだ。それでなくても契約を結ぶ魔法は高度なものなので扱えるはずがない。
旅をしている間に性格が変わった?
成長して他の魔法も使えるようになった?
そんなことを考えてみるが、さっきとは違った不安感が湧き上がるだけだった。
――刹那、寒い部屋の中で突如布団を剥ぎ取られたような感覚がセラアニスを現実に引き戻す。
「……夢……」
夢から覚めてしまったのだ、と気がつくと少し残念なような、それでいてホッとするような気持ちになり、セラアニスは暗い部屋の中で小さく安堵のため息をついた。
***
翌日の夜も夢を見たが、その夢はセラアニスのよく知る故郷の記憶だった。
安堵しながら自分が覚えているものと齟齬がないか見比べる。
ベルクエルフの里、リラアミラードは山の奥深くに存在しており、先祖代々その土地に根を下ろしていた。
里長は世襲制で、寿命の長いエルフ種だというのに十代以上続いている。
セラアニスには兄がいたため、次代は彼が里長を務めることになるはずだ。
(お兄さまたちは今どうしてるのでしょう……)
セラアニスは記憶にある時間からすでに千年経っていることを知らない。
見知らぬ文化も里からほとんど出られなかったため、この世界はこういうものなのだと受け入れていた。
――自分はちゃんと家族に相談して出てきたのだろうか。
そんな疑問が湧き上がる。
リラアミラードは閉じた集落だったが、来る者は拒まなかったため一部の者には外の情報が入ってきた。
そのせいだろう、若い者を中心に里を捨てて外の世界へと出て行くことが多発した時期があったのだ。
そんな時もセラアニスは指を咥えて見ているだけだったが――今こうして外にいるということは、自分も外に出る決断をしたのかもしれない、と考える。
(けれど思い出せない……なぜ里を出たのかも、どうやって里を出たのかも)
そう落ち込んでいると不意に記憶の映像が乱れた。
セラアニスが不思議そうに顔を上げたのと、記憶の中のセラアニスが周囲を見回したのはほぼ同時。
暗くなった部屋の中で誰かに腕を引かれる。
突然部屋の灯りを消されたのだ。目が慣れる前に暗闇の向こうでなにかが動く。
「……!」
それは僅かな月明りを反射する――細い針のようなものだった。
いわゆる注射器の針だが、セラアニスはそんなものを見たことがない。
ただ縫い針は知っているため、それを自分の腕に刺そうとしているように見えて戦慄した。
普通の縫い針ならともかく、布団や大きな旗を縫うための針は人差し指より長いもので、それが腕に刺さればどうなるかは想像に難くない。
記憶の中のセラアニスは激しく抵抗したが、闇から呼び掛けられて動きを止める。
それは知った声だったように思えたが、記憶そのものに音声がないため今のセラアニスに詳しいことはわからない。
次の瞬間、視界が完全に暗闇に包まれた。
「一体……なにが……」
無意識のうちにがたがたと震え、その震えが現実のものだと自覚したセラアニスはベッドの中で目を覚ます。
あの記憶はなんだったのだろうか。
目覚めた部屋の中も暗く、それだけで心臓がばくばくと脈打つ。
その心臓がなぜか他人のもののように思えるのはなぜなのか。
震える手足も、血の気が引いていく顔も、逆に冷えているのに熱を持っているように錯覚するみぞおちも、自然と下がってしまう両耳も他人のもののようだった。
不安を抱えながらセラアニスは思う。
昨日の夢は自分の記憶ではない。
そして今日の夢は自分の記憶だが――本当は見てはいけない記憶だったのではないか、と。
「イオリさん……」
自分の記憶ではないかもしれない思い出の中にいた彼。
そんな伊織に対する自分の気持ちは――過去の自分と今の自分、一体どちらのものなのだろう。
それを見極めれば自分についてもっとはっきりとする気がして、セラアニスは毎日伊織の様子を見に行くことに決めた。
不安を払拭するための咄嗟の思いつきだったが、彼が目覚めたら色々訊ねてみようと思うと少し元気が出る。
(もし、もしも……)
この気持ちが他人の感情を基礎にしたものだとしても。
(今の私は、たしかに――)
記憶の中で彼を見た時、安堵を感じながらどきりとした。
セラアニスは恋愛の経験などない。
しかし知識としてなら拙いながらも知っている。
あのどきりとした気持ちと、記憶をなくした後に目覚めてからこれまでの間に見てきた彼、触れた彼への気持ちを照らし合わせて思う。
(――イオリさんのことが好きです)
そうしっかりと思った瞬間、誰かが傍にいたような気がして顔を上げる。
しかし見えるのは他のベッドで眠るリータたちのみ。
不思議に思いながらも、いつの間にか鼓動も落ち着き不安が消え去っていることに気がついたセラアニスは深呼吸をしてからもう一度布団の中へと潜り込む。
次はなんの夢も見ることはなかった。





