第138話 魔力と肉体の記憶
ヨルシャミの姿をしているがヨルシャミではないという少女――セラアニスは自らをベルクエルフの里、リラアミラードの族長の娘だと名乗った。
一体なにが起こったのかわかっていないのは部屋にいた全員で、目覚めたミュゲイラすら初めはヨルシャミの冗談かと疑ったくらいである。
しかし急遽呼び寄せた治療師のヒルェンナにより、ある仮説が立てられた。
「……肉体と魔力の記憶? それを再生したせいで人格が変わったっていうのか?」
サルサムにそう訊ねられたヒルェンナは自分でも半信半疑なのか、煮え切らない様子で頷いた。
「ヨルシャミさんは頭部を損傷していて、それは脳にも達していました。回復魔法は再生速度を上げるものなんですが、脳だと再生しても他の場所より治りが遅いんです。その問題を解決するために私の回復魔法は少しアレンジしてありまして……」
脳まで瞬時に回復させられる回復魔法はなかなかお目にかかれない。
もし世の中の治療師すべてがそれだけ熟達していたら、魔獣との戦闘も今より優勢に進められていただろう。
しかしヒルェンナの『アレンジされた回復魔法』は少し事情が異なるようだ。
ヒルェンナは己の胸元に手をやって言う。
「回復魔法以外を使えなくなるという条件を付与して、代わりに即再生が難しい部分を肉体そのものや体の中の魔力が記憶している形状を参考に元通りにするものです」
魔力は生き物である、というヨルシャミの持論は世の中に浸透していない。
そのためヒルェンナが指す『記憶している』は情報の蓄積や記録に近かったが、実際には生きた魔力が常に巡る体の形を記憶しており、その記憶を参照して再構築しているのだ。
そして魔力は魔導師以外の体内にも少なからず存在しているため、魔導師でなくとも同様の治療が可能というわけだった。
条件を付けて魔法を強化する方法はロストーネッドでも見たものだ。
ヒルェンナがその方法とまったく同じ手法を用いたかどうかサルサムたちにはわからないが、ヨルシャミなら興味津々で詳しく訊ねただろう。
しかしそんなヨルシャミはこの場にいない。
ヒルェンナは眉を下げて部屋にいる全員を見る。
「でもいくら脳を回復させたとはいえ、こんな結果になるのはおかしいんですが……ヨルシャミさんが過去にセラアニスと名乗っていた、ということはありませんか?」
「いえ、そんな話は一度も……」
ヨルシャミがリータたちに話していないだけかもしれないが、考えてみれば旧知の仲らしいニルヴァーレも『ヨルシャミ』と呼んでいたのだ。
ならば本名だと考えるのが妥当だろう。
そして、もし過去の記憶が再生されていたとしても――性格が違いすぎる、というのが満場一致の意見だった。
ベッドにちょんと座ったセラアニスは本人が悪いわけでもないというのに、申し訳なさそうに俯いていた。そんな表情をヨルシャミはしたことがない。
耳までぺったりと寝かせているその姿を見かねて、リータはセラアニスの手をぎゅっと握った。
「あの、初対面の人に言われてもなに言ってるんだって感じかもしれませんけど、心配しないでくださいね。私たちはあなたに危害を加えようって気はないので」
「め、滅相もないです! お気遣いありがとうございます……! その、まだ状況がよくわかっていないんですけれど、私のせいで皆さんを困らせてしまっているようだったので申し訳なくて……」
しかしその解決方法はセラアニスにもわからない。
それがとても悪いことをしているようで、なにか思い出せないかと必死に記憶を探っていたのだという。
「私はベルクエルフでリラアミラードに住んでいた、ということはわかるんです。けれど他の記憶は霧がかかったように思い出せなくて……すみません」
「そんな! セラアニスさんは悪くないです、謝らなくて大丈夫ですよ!」
リータはセラアニスの背中を優しく撫で、ヒルェンナを見た。
話すか話すまいか迷っていたが、判断を仰ぐべき聖女マッシヴ様がいないのなら自分たちで決断するしかない。
今はセラアニスを不安にさせたくないため、リータはヒルェンナに声をかけてふたりで隣室に移動した。
「ヒルェンナさん、お医者様や治療師の方からしたら信じられないことかもしれませんが、話を聞いてもらえますか?」
「話ですか?」
わざわざ前置きをしたのは、これから言うことが嘘でも冗談でもないと事前に知らせるためだ。
真剣な表情で訊ねるリータを前にヒルェンナは身構えながらも首を縦に振った。
リータは緊張した声音で話し始める。
「――ヨルシャミさんは今の体に脳だけ移植されていて……本当はエルフノワールの男性なんです」
***
伊織が目覚めると誰かに背負われていた。
一定のテンポで体が揺れる中、顔の間近にある赤い髪の毛を見て自分を背負っているのがネロだと気がつく。
その拍子に身じろぎしたため、ネロが伊織の覚醒に気がついた。
「起きたか?」
「はいっ……すみません、重たいのに背負ってもらっちゃって……!」
「あー、下りようとしなくていいぞ。凄い世話焼きがいくつか魔法をかけてくれたから全然重く感じないんだよ」
凄い世話焼き?
そう首を傾げかけて、意識を失う直前の出来事を思い出した伊織は「ニルヴァーレさんはどうなりました!?」と慌てて訊ねる。
ネロはニルヴァーレに頼まれていた通り、死んだわけではなく魔石に戻っただけだと説明した。ついでに歩きながらどうやって大カラスから逃げたかも話しておく。
聞き終えた伊織は心配げな声を漏らした。
「そ、そんな無茶を? すみません、怖かったですよね……」
「怖っ……あ、あれくらいで怖がるはずないだろ、むしろ空から見た景色が絶景で楽しかったくらいだ。うん。べつに高いところは苦手じゃないし」
少し早口になったネロを見て伊織は隠れて小さく笑う。
そして赤いつむじを見ながら問い掛けた。
「……あの時、どうして魔石を投げてくれたんですか?」
「前にも魔石が助けてくれただろ。それに――イオリの師匠ならきっとお前のことを死なせたりしないって思ったんだ」
伊織は背負われながら目を見開く。
不思議な感覚だ。それがなんなのか探ろうとして伊織はすぐに思い当たる。
自分以外に、初めて今のニルヴァーレを人間扱いしてもらえた気がしたのだ。
人に理解してもらえるというのはやはり嬉しい。
気分が高揚した伊織は無意識に目線を上げて前を向く。
すると自分たちを導くようにオレンジ色の変な生き物が羽ばたいていた。
「……」
デフォルメされたネコの頭部がコウモリ羽を生やして飛んでいる。
コウモリ羽もなぜそんな小ささで飛べているんだと疑問が浮かぶサイズだ。ボディは光沢があり、後ろ姿だけでもウサウミウシに似ている。
まるで色んな要素を突っ込みすぎて消化不良を起こした夢に出てくる謎の生物のようだった。
というか、むしろここは夢の中なのだろうか?
じつは現実の自分はまだ目覚めていないとか?
伊織はそんなことさえ思ってしまった。
なんとかして現実だと思い直したい伊織は再びネロに問う。
「えっと、あれは……? し、召喚獣ですか? それとも現地の動物?」
伊織の戸惑いを理解したネロが「あいつか」と謎の生き物を見ながら頷いた。
「ネコウモリだってさ」
「……ネコウモリ」
まんまである。
ウサウミウシの時にも感じたが、とにかくまんまである。
ニルヴァーレのことを理解してもらえた代わりに、伊織に理解できないことが増えた瞬間だった。





